ラベンダー色の入浴剤が湯に溶けてゆく様を眺めているとこのようなことを思った。
「この現世に存在するものはすべて俺の脳が拵えた幻の産物である」
気が触れるとは真実に触れると同義であり、そこには微塵の衒いもない。
ときに幻の分際で「給油口開けてください」などと仏頂面で迫り来るガソリンスタンドのお兄ちゃんがいる。
そこは己自身が創り出した幻の言うことであり、ある種の親心をもって素直にそれに従う。
またタクシーなどに乗車すると高齢の運転手と出会う。
見るからに運転慣れしていないようでシートを極限まで前方にスライドさせ、運動会の我が子を探すかのように辺りをうかがいながらおどおど走り出しては白状に及ぶ。
「すいません、道がまったくわかりません」
それは先刻に承知するところであり、我が幻を親身に温かく労わる。
「大丈夫ですよ。逐一こちらから指示を出しますから」
「すいません、助かります」
「あの、差し出がましいようですが環七をぐるっと何周かすればなんとなく東京の道が掴めますよ」
「ありがとうございます。この歳にして新人でしてナビの使い方すらわからないもので」
「失礼ですが営業所までは帰れますよね?」
「あぁ、そうですね。一か八かですね」
鉄火場の博徒のような高齢運転手にタマゴボーロを嚙んで含めるようにしてナビの操作法を教える。
このように日々出会う幻たちは自ら産み落としただけに無愛想でも愛おしく、また困っているところなどは素通りできない。
しかしつい昨夜のこと、それらを根底から覆す異形なる幻たちに出くわした。
「僕はオナベでもなくオカマでもない雪平鍋でありたい」とご乱心が過ぎる友人と飲んだ。
馬肉でしこたま飲んだ締めはミスドにでも行って清く別れようじゃないかという提案を受け、ドーナツをつまみながらコーヒーをすすり槇原敬之の行く末について語らっていた。
「あ、ちょっとお花を摘みに」
友人がトイレに立ち、しばらくすると足早に戻ってきては鼻息が荒い。
「どうした、壁にハングリースパイダーでもいたか」
「バッグがないの」
彼は大小に関わらず個室にて用を足すのが習慣らしく、この度はつい洗面台に鞄を置いたまま入室してしまったらしい。
「今日鞄なんて持ってたっけ?」
「持ってたの!ミスドのキーホルダーが付いたミスドのトートバッグ!」
ミスドのキーホルダーが付いたミスドのトートバッグをミスタードーナツで紛失するという想像を絶する非常事態。
最早こちらとしては与り知らぬところであり「すべては俺が創り出した幻だ」という信念がオールドファッションの如くホロホロと崩れそうになる。
不幸中の幸いにして携帯と財布はポケットに入れていたらしく、そこは難を逃れたと言ってもよさそうなところだが彼はいつまで経っても難と対峙をしている。
「なんか大切なもんでも入ってたのか」
「ううん、大した物は入ってないの。食べかけのぷっちょと小田原城のパンフレット」
「盗んだ奴が災難だわ」
「やっぱり盗まれたのかな。こんなこと思いたくないけど盗まれたのかな」
彼が恐る恐る辺りを見回すとこちらも自然と同じ動作に導かれるのだが、店内は閑散としておりそれらしい者など見当たらない。
唯一目に付いたのは窓際に位置なす高齢のご婦人であり、葬儀の帰りとみえて喪服に大粒のパールネックレス、その手首には大粒の数珠を身に付けている。
お召し上がりになっているものを高速二度見をもってして大層驚いた。
パールネックレスと数珠を付けてポン・デ・リングをはむはむしているではないか。
なんだろう、パンチパーマの人が理科の実験でスチールウールを燃やしているみたいな感じだろうか。
己の想像力などいともたやすく凌駕してみせるその現実を認め、それに付随する個の独自性も素直に認めなければならない時がやって来たようだ。
目の前に座る男が落涙を控えた震える声を漏らす。
「いいの、もういいのよ。盗まれようが失くそうが」
言葉の出合い頭事故を避けて彼の二の句を待ち受ける。
「だってここは彼の生まれ故郷じゃない!彼は帰って行ったの!彼は森に帰って行ったのよ!」
地方出身の彼は望郷の念を失われたトートバッグに重ねて泣いた。
側から見れば別れ話にこじれる二人のおじさんという修羅場であり、ここは無理にでも話題を変えなければならない。
「あのさ、究極の選択ってあんべ?おかんの携帯に加藤鷹からの鬼コールに対して同じレベルの嫌なことってなんだと思う?」
「今そういうのいいから。彼はね、彼は深い森へと帰って行ったのよ」
「いつまでもメソメソしてんじゃねぇブタゴリラが!ちゃっちゃと答えろオラ!」
「なんなのよもう!じゃあ自転車から一生降りれません!」
「なにぃ!?それはお焼香をあげるときもか!?」
「当たり前よ!だから一生降りれないって言ってるじゃない!彼女の親御さんと会食するときも降りれないの!なかなか店員さんが来なければ自前のベルをチリンチリン鳴らせばいいじゃない!」
そのうち互いの欠落した箇所を狙った罵詈雑言合戦が始まるとそこへ割って入ったのはミスドの男性店員。
「すいません、他のお客様にご迷惑が」
その物腰は至って柔らかく、されども瞳には漢が宿っている。
皆の制止を振り切りキャンプ場でひじきの煮物を作りそうな男だ。
「ごめんなさい。おう、帰んぞ」
「他のお客様ってガラガラじゃない!」
昂ぶりに乗じて暴言を吐くブタゴリラを一発張り倒して鎮静をはかるも益々の別れ話感が周囲に助長されて終う。
この現世に存在するものは俺の脳が拵えた幻の産物などではなかった。
人は極まる難事に際して「幻であれ!」と切に祈り願うものであり、それを一個人が司るなど甚だしい妄想以外のなにものでもない。
思い返せば幼い頃、親父と遊園地でヒーローショーなるものを観たことがある。
司会のお姉さんが悪の手下どもにまんまと拐われ、会場中のちびっ子たちはヒーローの登場を今や遅しと待ちわびた。
すると悪の手下より遥かに脚の太いお姉さんがヒーローを呼び出すにはみんなの助けが必要だという。
「じゃあみんなで呼んでみようね!せぇの!◯◯マン助けてぇ!」
お馴染みのオープニングテーマが鳴り響くことややあって会場の対面に建つビルの屋上にヒーローが現れた。
「みんなもう大丈夫だ!お前らの好きにはさせないぞ!」
ついその勢いで四階建てのビルからひねりなんぞを加えて華麗に飛び降りるものだと思っていた。
するとどうだ、階段を小走りに下っているではないか。
目下、寝坊をして先行く登校班を全力で追いかける団地っ子のように階段を小走りに下っているではないか。
幼心に「幻であれ!」という堪らない気持ちが溢れた。
「ねぇ飛び降りないの!?」
モンゴルの大草原にて朝日に照らされた馬の群れに心を溶かしたような遠い目をしてそれに答えた親父を今でも覚えている。
「死んじゃう」
そんな夢もへったくれもない現実主義の親父だが、一日にして何度も「幻であれ!」と心中に叫んだことがあるという。
うちの親父は四柱推命を基にした占いや霊障相談を営んでおり、話は開業して間もない二十年前にまで遡る。
雨がしとしと降る肌寒い日のこと、妙齢なる女性が父の元へ訪れた。
熱い玉露にお茶請けのあんぽ柿を添えて話を伺う。
「今日はどうなされましたかな」
「三年前に結婚したのですが、何度も流産してしまうのです」
「それはそれは。さぞお辛いでしょうな。さ、お茶をお上がりください」
「はい、頂きます」
女性はお茶とあんぽ柿を口にすると一息つけたようで、親父は少しばかりの間を自他に与えたのちに一歩踏み込む。
「ご自身、ここ数年のお身体の具合はいかがでしょうか」
「とにかく肩凝りが酷いです。常に両肩がズンと重いといいますか」
「なるほど。水子様のご供養はお済みでありますか」
「いえ、済んでいません。それが原因でしょうか」
親父は引き続き入念な聴き取りを行い、それを箇条に記しては頭から目を通す。
「三年前にご結婚とありますが、これは一度向こうのご両親が反対なさったと」
「はい、バツイチの私をあまり良く思っていなかったようで」
そのとき女性の黒目がツツツと上部へ移行し「ぐるん」と白目になった。
成仏叶わぬ水子が彼女の表層に突如として出現すると親父は数珠と粗塩を手元に寄せる。
「…すいません。気分が悪いです」
「大丈夫ですよ。お気を確かに」
「もどしそうです。お茶をもう一杯頂けませんか」
「わかりました。少々お待ちを」
給湯室で新たな茶を入れ、好評につき第二弾のあんぽ柿を添えようとしたところ先の包みに記載された印字が目に入る。
消費期限が阿呆みたいに半年を過ぎているではないか。
水子が暴れ始めたと思いきや、食中毒の線も太く出てきた。
「幻であれ」
開業したばかりで経験が浅いとはいえ鼻水を垂らしながら当人に「ん、どっち?」などと首を傾けてお茶目に問えば術師としての沽券に関わる。
残るあんぽ柿を開封してクンと嗅いでみるも特段に異臭などはなく、試しに前歯でチリと齧る。
曰く「柿農家のおじさんをゴーヤで殴りつけたような味のグミ」とその強烈な味を形容した親父。
もはや水子か食中毒かわからない以上はフルパワーで経をあげつつ千切れんばかりに数珠をジャカジャカ鳴らし山盛りの粗塩を女性に振りかけるしかないと揺れる心に決めた。
しかし彼女はトイレに駆け込むと篭ったまま出て来ない。
女性の尊厳を守りつつドア越しにその容態を五分おきに確認していると、あろうことか過活動膀胱がしゃしゃり出て強烈な尿意を催した。
そのまま風呂場の排水溝にでも放てばよいものの潔癖の気がある親父にそれはできなかった。
最寄りのコンビニへ向かおうとするも確実に間に合わないと観念、ならば事務所前の駐車場で立ちションを敢行するしかないという大脳の提案に全細胞が賛同したらしい。
女性のヒールを蹴散らし、右足に革靴、左足には健康サンダルという緊急極まる出で立ちで階段を下って駐車場へ急ぎ、車と車の間へ走り込んでは突き当たった塀に思いの丈をぶちまけた。
なにか視界の隅に動くものを認めたが強烈な尿意からの開放感に気にも留めない。
それでも視線のようなものを感じてその方へ首をひねると、小雨のなか草むしりに精を出す大家のおばあさんが大塩平八郎の乱に出くわしたような顔で親父を見据えていた。
「幻であれ!」
その距離三メートルあるかないか、おそらく大家さんは雑草も抜いて度肝も抜かれたことだろう。
その場に相応しい言葉など互いに持ち合わせてはおらず、それでも何か言わなくてはと先陣を切ったのは三〇二号室の亀田さんだった。
うちの親父はこと挨拶に関しては平時より非常にうるさく、耳をほじりながら「あ、うす」と親戚のおじさんに挨拶をした十代の時分にはこっ酷く叱られた。
それがどうだ、ションベンをしながら「あいにくのお天気ですな」と大家さんに挨拶をカマしたらしい。
親父は回顧の総括に入る。
「あの日は全体的に幻であれと本気で願ったよ。そしていつしかその願いは叶っていた。過去はすでに消え失せている以上もうそれは幻だ。やはり今しかないんだ。人は今を生きるしかないんだ。ちょっと小便」
幻とは儚い願いであり、また願いとは慈しむべき幻なのだろうか。
巨大ビーズクッションに身を預けてグローで一服、先の雪平鍋野郎からメールが届く。
「なんとトートバッグが家にありました!(´∀`)」
黒目がツツツと上部へ移行し「ぐるん」と白目に。
fin