月別: 2020年1月

子年の子

 

新年明けましておめでとうございます。

昨年に於かれましてはひとかたならぬご愛読を賜り、ここに一重にも二重にも厚く御礼を申し上げる次第にございます。

さて、新年ということで皆様はどのような初夢を見られたのでしょうか。

古より縁起とされるは「一富士二鷹三茄子」と続き「四扇五煙草六座頭」と連ねるところ、こちらの不勉強により六に位置なす座頭の意味合いを調べますと、剃髪された盲人からの由来を受けて「怪我ない」という親戚のおじさんがトップバリュの発泡酒をあおりながら勢いのみで制定したようなものでした。

ちなみに私の初夢は富士そばにて鷹の爪をふんだんにふりかけた茄子天そばを食すというものであり、このままいけばパーフェクトな初夢となるところ、なぜか私は家庭科の授業で作ったナップザックを背負っており隣に座るジャッキーチェンがそれを大絶賛という吉凶に判然ならぬ訳のわからない初夢となっております。

つい先日は蛇崩川緑道をそぞろ歩いておりますと公園の砂場で親子が相撲を取っていました。

いわずもがな相撲とは神事に端を発し、素人相撲ではあれどこれは紛うことなき縁起物であります。

「んん、こら新年早々めでたいな。ちょっと見ていこう」

枡席に見立てたベンチを陣取ると温かいコーヒーなどあってもいいなと自販機へ。

そして冬天の下、何をどう間違えたかキンと冷えたチチヤスナタデココヨーグルト味を片手に観戦する運びと相成ります。

父親ひとりに対して幼い男の子が三人という一番、四股を踏む彼らに「んよいしょ!あどっこいしょ!」と声が飛ぶ。

声の主は空き缶を満載した自転車に跨るおじさんであり、前記したFの行く末をそこに見たような心持ちがいたしました。

父親の「はっきょいのこった!」の掛け声でいざ立合い、三人がかりで束になるも大人にはとうてい敵わない。

すると機転を利かせた子がスルと真後ろに回り込んでローキックを叩き込む。

それも狙い澄ましたように何度も同じ箇所にバスバスと叩き込みます。

そのうちローを嫌がり始めた父親に私はこのような格言めいたものを新春の空に詠わせていただきました。

「親の小言とローキックは後になって効いてくる」あらかしこ。

さて執拗な蹴りが長らく続き、見るに堪えない大カンチョー祭りに切り替わると人様の家庭事情なるものを次第に気取ります。

「継父なのではないか」

組んず解れつ奮闘する子に背後からみだりにカンチョーを叩き込む子、あとひとりはどうしたのかと見回せば砂場の端で何かしている。

父親が脱いだダウンジャケットのポケットに砂をパンパンに入れ込んでいる。

そのひたむきな姿はあたかも職人による悠久の時を経た手仕事のようであり、相撲に次いでまたしても縁起物に触れたところで確信したことがございます。

「こら完全に反りの合わない継父だわ」

缶の底にへばりついたナタデココのようにいけ好かない継父の打倒に粘る子供達。

私はその美しくも悲しい姿ですら新春の名の元に於いて縁起物として捉えたい。

空き缶を満載にした自転車のおじさんが近づいて来ました。

「兄さん、その空き缶くれるかい」

「え、あぁどうぞ」

「今日はどのくらいになったかな」

おじさんは大量の空き缶が入ったビニール袋を担いで重さを試し、私は数々の縁起を担いで蛇崩川緑道を三軒茶屋方面にまたそぞろ歩いていったのでした。

 

fin