月別: 2022年3月

夜の果てのアイボリーペイン

 

三月一日(火) 日々に取り立てた不足もなく、日々にのうのうと過ごしている。そのようなことでは地球が消滅するときにドリフ大爆笑のテーマをBGMとした全人類が記されるエンドロールに自分の名は載らないのではないか。

三月二日(水) 「ビルを雑巾のように絞ったらヤクルトぐらいの水分は出ますか」と面識のない建築関係の方に不躾にもメールで問うたところ「ジョアぐらいは出るのでは」とのご返答を賜る。携帯画面に一礼、そっと削除。

三月三日(木) ある男の告白によると先日父親が長年愛用していたアホのようにぶ厚い眼鏡のレンズにひびが入り、新調すべくそのお供をする運びとなった。父親は久方ぶりの眼鏡屋に血湧き肉躍り、白いもみあげが逆立つほど様々なフレームを取っ替え引っ替えした結果、その翌日に新生活応援セールの陳列棚からアホのようにぶ厚いレンズの眼鏡が発見されたと店舗サイドより連絡を受けた。

三月四日(金) 乾燥機付き洗濯機の視察に家電屋へ。巨大なテレビの前を陣取るおじさんがロシア・ウクライナ情勢の映像に対して驚くべき見解を示した。「よくわからないが」と前に置いて「もうあれだ、もうプーチンは球拾いからやり直しだな!」と爆ぜる。

三月五日(土) カクテルのメニューにセックス・オン・ザ・ビーチを発見する度に「砂が入るのでは」と下世話な心配をしてしまう自分が嫌いではないっすね、えぇ。

三月六日(日) 「その深い二本のほうれい線が上へ上へと伸びてゆき、いつしかそれが眉間に交わるとき貴方は観光バスに轢かれるでしょう」と占いにハマる義母より物騒な宣告を受けた男を知っている。

三月七日(月) 永劫の戦争放棄宣言をした国のみが核兵器を保有する権利があんじゃねぇの的な。

三月八日(火) 横で眠る女が太字の寝言で「陶芸教室へ強盗よ」という。お前はもう誰だ。

三月九日(水) 近頃ではロシアの小さなラジオ局から二十四時間ノンストップで放たれる聖歌ばかりを聴いている。歌詞は一切わからないがその執拗な美しさに無宗教のハートが羨望を起こしてやまない。それがたとえ「実家の母ちゃん未だにカスピ海ヨーグルト作っているぜ!」と歌っていたとしても構わない。

三月十日(木) マンション前のゴミ捨て場をさもしい数匹のカラスが辺りを警戒しつつに荒らしている。ついばむアメリカンドッグはケチャップ&マスタードを店員が入れ忘れた為にこちらがついカッとなって丸ごと捨てたものであろう。そしてもうひとつ、元旦に気の向くまま厚紙に毛筆を立てたものの書き終えて自ら理解に苦しんだ「令和のマルコポーロ」がゴミ袋から路上に飛び出しているじゃない。

三月十一日(金) ついに理想的な薄手のいい感じにへたるグレーのトレーナーを古着屋にて発見。値札など見ずに、また試着などせずにカウンターへ持ってゆき早々の会計へ。二万五千円という値段に多少の驚きこそあれど、己のセンスが高く評価されたような心持ちが上回ると嫌な気分はしない。しかしそこで初めて気付いた左胸の「R」という刺繍に財布を開く手が止まる。Rは駄目だろう。錬太郎がRの刺繍は駄目だろう。それでも諦め切れず「この刺繍は錬太郎のRではないという意味でのRですよね」と無法にも店員に詰め寄る。彼が「え?」と狼狽する心情を短く表せばその語気こそ大昔に高円寺のピンサロで大会前の仕上がった女性ボディービルダーが登場した時に思わずこちらの口を衝いた「え?」に酷似していた。

三月十二日(土)茶沢通りの整体院前で客を見送る若い店員が「本当にすいませんでした!」と頭を下げた。受けておじいさんは「いや、ね、うん」などと言葉少なくいなしている。おそらく施術中のおじいさんがあまりにも大山椒魚に似ているものだから魚肉ソーセージを口にねじ込んでしまったのだろう。

三月十三日(日) 戸越から首都高、ハンドルを握る年上の方が「最近は瀬戸内寂聴を読んでいる」という。そして「彼女は九十九歳で亡くなった。それは自他に百の希望を抱かせたようで実に彼女らしい」と継いだ。こちらとしてはただただ頷くばかりで車は白金料金所に到着、それからしばらく走るとY字に岐れる一ノ橋JCTに臨む。「この一ノ橋ジャンクションの合流は怖いよ。向こうから来る車が全然見えないからね」と言いつつ無事に難所を乗り越え、そこへたまさかカーラジオからマイケル・ジャクソンが流れると氏は「お、マイケル・ジャクション」と発した。なんだかもう寂聴とJCTとジャクソンが入り混じった末の言い間違いなのか、それとも渾身のギャグなのかしばらくこちらには判然とせず、結局は年上を立てる形を以て窓を少し開けることで外気に流した。

三月十四日(月)未だ見ぬ娘が年頃となり、伏目に「の」の字を書きながら「今度会って欲しい人がいるの」などといい、松屋の限定メニューであるシャリアピンソースのポークソテーのような男を連れて来たのなら何もいうことはないぜ。

三月十五日(火) それぞれの狂気を持ち寄って。

 

fin