近隣の体育館にてバレーボールの試合が行われるとの急な誘いを受けた先夜のこと。
特段の断る理由もなく、諾したのちに「それらしいシューズがない」と告げるも一切の心配はないという。
徒歩数分の涼風立つ道途、中学校の敷地に踏み入ると金木犀の香りの向こうからは床の擦れる音。
館内は中学生の汗と涙と生煮えの自意識を総じた懐かしい埃臭さに満ち、壇上の縁に腰掛けて手を振るのはこちらを誘ったA氏。
「いやぁ、ごめんね。どうしてもひとり足りなくて」
急な誘いから数合わせだとは察していたが、昨今のコロナ禍において適度な運動は免疫、代謝の面々に有効であるらしく、またそれを信じたい。
辺りを見回せば館内の者はすべてにマスクの着用をしており、先より目についていた男がやはり気になる。
身の丈は目見当で百八十の後半、いかり肩のアスリート体型であり、おしゃれ短髪というよりは小学生のころより通っている床屋仕上げといった純朴な風情に好感がもてる。
「彼はS君。バレーで大学に入ったうちのスーパーエースだから。彼がいる限り負けないよ」
一歩前へ進み出た彼はマスクを外してこちらに恭しく「Sと申します。今日はよろしくお願いします」とつむじがみえるほどに頭を下げた。
なんだろう、近年ではこのような気持ちのよい若者を気の利いたしゃぶしゃぶ屋にでも連れてゆき、三、四枚の肉を一度に頬張り白飯を掻っ込む姿を両手で頬杖をついて眺めていたい。
それについて「おそらく加齢が深く関与したであろうこのような思いとは人としての成熟の証なのだろうか」と今夏の実家にて六歳になる甥に尋ねたところ「予告する!あんたのお宝いただくぜ!」とルパンレンジャーのダブル変身銃DXで側頭部を殴られた。
このような未だはっきりしない思いを抱えつつ、これまた現状にはっきりさせたいことがある。
「あの、おれの靴はどうなってんの?シューズ的な、おれの」
「あぁ、はいはい」とリュックから花柄のポーチを取り出したAの手元がスローモーションにみえた。
そして薔薇が至るところに咲き乱れる折り畳みルームシューズの激しい反りを直しながら手渡される。
「お前、これ母ちゃんが授業参観のときに履くやつじゃねぇか」
「すまん、これしかなかったんだ」
こうなれば裸足での参戦もよぎるが、それでは相手チームに敬意を欠く。
されども薔薇がそこここにあしらわれたルームシューズをペタペタ履きこなすおじさんにポイントを取られるのも腸が煮えくり返るだろう。
ならば出来る限り相手の目線を上に持ってゆくには海苔を前歯につけるしかない。
しかし、よりによって相手チームには「永谷園のお茶づけ海苔」とプリントされた面白Tシャツを着る馬鹿者がおり、海苔にはすでに先約の掛かる形となっていた。
もはや八方塞がりのところに「まぁ履くだけ履いてみてよ」というAの声。
仕方なく嫌々に足を通してみると、なかなかどうしてその履き心地に不満はない。
「とにかく俺とSにボールを集めてくれ」
参謀格Aの指示に各々頷き、男六人で組む円陣に気合の掛け声が入る間際、眼下に広がるバレーボールシューズの群生に紅一点とした薔薇がよく映える。
センターラインに両チームが並び、主審より世情に則るマスクの着用、そしてハイタッチやハグの禁止が伝えられ、試合開始のホイッスルが高らかに鳴り響くと思いきや、主審であるお兄さんがポケットをパンパンゴソゴソと粗忽者の改札前状態に陥っているではないか。
サーブを控えたSがボールを床に叩きつける音のみが館内に響く。
ホイッスルをこの上なく家に忘れた彼は脳をフル回転させてオリジナルの開始合図を捻り出した。
「は、始まりぃ!!」
もうほとんど紙芝居に近いが、主審の決断に選手の入り込む余地はない。
いや、それにしても我らがスーパーエースS君のジャンプサーブは想像を超えて凄かった。
すさまじいドライブ回転のかかるそれはほぼスパイクのようであり、もはやバレーボールではなくドッジボールと化した敵陣の惨状に時として無回転サーブも織り込むものだからたまらない。
長らく超一方的な試合運びが展開されると主審がプレイを止めて「ずるい」という厳正なるジャッジを下した。
するとサーブはAに回り、それまでの発言や態度からこれまたエグいサーブが乱発するのではないかと思った。
しかし、それが、どうだ、糸くずのようなアンダーサーブはネットまで届かず、すべての者の顎が外れる。
それは相手チームへの小粋なハンデと捉えることも出来るが、おれはその時点でやつの実力を大いに怪しむ。
それからAの動きに着目していると、球技音痴に特有の「ボールが来ると上を下への大騒ぎ」が見て取れ、それに伴うミスが極めて多い。
こちらが分析するには必ず盆踊りのようなものを一節舞ってからボールに接する為、風呂上がりの便意ぐらいにタイミングが悪い。
そんなAに苛立ち始めるメンバー達だが、Sに限っては努めてチームの和に心を配っていた。
やはり団体競技で長年に揉まれた者はその人格からして仕上がっており、またこのようなこともあった。
激しいラリーの後、前衛と後衛のちょうど真ん中辺りに謎の物体が落ちていた。
競技を円滑に進めるべく主審が素早くそれを場外へ蹴り飛ばしたところ、Sが走り出してはそれを拾い、こちらへズンズン向かって来るではないか。
「シューズが脱げましたよ」
プロポーズのように片膝をつき、薔薇柄のルームシューズをそっと床に置いては引き上げる後ろ姿にこちらの理性もどこかへ引き上げたらしい。
それからというもの前衛で構えるSの突き出した尻がどうにも愛おしく、集中力が急激に低下するとチーム全体に伝播してか、敵軍の猪突とした追い上げも重なりついには同点となってしまう。
「ここです!ここはじっくり一本いきましょう!」
スーパーエースの檄に士気は高まり、お遊びだからこそ負けたくないという男心はメンバー六人に一致するところ。
敵のスパイクを弾いたボールがコート外へ飛んでゆき、そこへ決死のフライングレシーブを敢行するS。
宙に生きたそれをこちらも死なすまいと躍起に内へ返したところ、その落下地点には「うぇいさ!」とみなぎるAが待ち構えていた。
ここはひとまず敵陣に深く押しやればよいものの、お待ちかねの盆踊りが開催され、その一部に鬼のパンツの振り付けまでもが参入するとしゃかりきに打ったスパイクは明後日の方向へ。
これはもう数合わせ要員であることは棚に上げ、年長者という立場から奴を叱責しなければならない。
世間では「叱られるうちが花」というが、この度は「叱る人のシューズが花」であることから多少に気まずいところだが遠慮なくAを叱りつけた。
「お前、君ね、インポのレイプ魔みたいだぞ!」
試合は組んず解れつ苛烈なシーソーゲームの様相となり、思いの外に辛いのがマスクの存在だった。
すべての選手がその息苦しさから酷く疲弊していたが、それでも一番にハードだったのは主審のお兄さんであろう。
人手不足により通常の主審業務に加え線審及びスコアボードのめくり係に忙殺され、後々聞いた話によるとその当日に自宅のトイレが詰まり、ラバーカップを求めて三茶の西友まで出向くも目の前で売り切れ、しょうがなく駒沢のマルエツまで遠征したところ、ハンドルをオラオラ震わせた自転車のおじいさんに轢かれた挙句「スクールボーイ!てい!」と叱られる役どころまで一手に引き受けていた。
「さぁさぁ一本いきましょう!一本!」
無尽蔵のスタミナを誇るSがチームを盛り立て、Aが不穏にも「うぇい!」などとそれに応え、残りの男たちが各々に頷くと家族のような気がした。
しかしこちらは数合わせ要員であり、この試合が終わればメンバーたちとは今生の別れとなるだろう。
そのような感傷は勝負事にはご法度なのだが、近頃ではこれまた加齢のせいか家族モノに酷く弱い。
現在NHKの童謡に飼っている金魚が大きくなり過ぎたという歌が流れている。
家族会議の結果、狭い水槽ではもう飼うことが出来ないとなり、別れを悟った弟が泣くと我慢していたお兄ちゃんもついには泣き出してしまい、テレビの前のおじさんも泣き出すという修羅場が時折我が家に発生している。
なにはさて、以前より知り合いであるAを除き、他のメンバー、ことにSとの出会いは素晴らしいものであった。
常に他者を気遣い、なにより和を尊び、得点の際には子供のように喜ぶ。
こんなにも真っ直ぐな男とは後にも先にも出会うことはないだろう。
最終局面を迎えるその直前、Sはタイムアウトを取りメンバーひとりひとりを優しく見据えた。
間もなく出でる言葉は熱く愚直なまでにストレートであり、また愛に溢れたものに違いないだろう。
「マスクで眼鏡が曇っているじじいを狙いましょう」
おれはスーパーエースの発言に狼狽し、思わず目をそむけたその先に主審が花柄の謎めいた物体を場外へ蹴り飛ばす姿をみた。
fin