シフトレバーをRに入れ、ルームミラーと目視で後方及びその往来を確認。
ハンドルを目一杯切り、アクセルを踏み込もうとしたところで助手席の者が言い放った。
「猫って基本スポーツ刈りじゃないですか」
いつだったか三茶の西友前で全く面識のないおばさんに「餃子の皮買ってないわ」と面と向かって言われたことがある。
それと同じような衝撃にこちらとしてはただただ放心より手立てはない。
「スポーツ刈りじゃないですか、基本猫って」
「…そうね」
「それに比べて犬は割と毛があるんですよね。猫は基本スポーツ刈りなのに」
「…うん、そうね」
「あ!芝犬はスポーツ刈りか!」
「お前スポーツ刈りスポーツ刈りうるせぇよ!こっちはもうスポーツ刈りの一日の摂取量はとうに超えてんだオラ!」
「あれ、亀田さん犬派猫派どっちでしたっけ」
「あ?おれは猫派よ。顔面が大福みたいな茶トラのスコティッシュとか超ベスト」
「飼えばいいじゃないですか。そんなに好きなら超ベスト」
「考えなくもないけどな、死別の辛さを想像すんとおれにはちょっと無理だわ」
「あぁ!パグもスポーツ刈りでした!盲点!」
「だからいつも思うのは猫を飼ってる人よりおれの方が何倍も猫愛が大きいんじゃねぇかって」
「いやそれはただ死別から逃げているだけですよ。飼っている人はですね、その日まで最大限の愛情を注ぐので悲しみはもちろんありますがそれ以上の温かい日々の思い出がすべてを包み込んでくれるのです」
「へっ!もっともらしいことをいけしゃあしゃあとまぁ!ムカつくなぁ…お前なんかしゃしゃってんなぁ!お前の母ちゃん出べそ!へっへー!」
「母ちゃん来週乳がんの手術です」
「本当にごめんなさい」
その夜、その寝しなは見上げる天井をスクリーンに己の飼育遍歴を遡る。
やはりその筆頭には小学生の時分よりなじみ深いザリガニがお出ましになった。
近所の田んぼや用水路にて素手で捕獲しまくり、その中から取りわけ凶暴なものを最良とした選別を友人と行い、それぞれに数匹をバケツに入れて帰宅する。
ザリガニとは共食いに躊躇のない生き物であり、こと凶暴極まる猛者たちの夕餉には一晩では食い切れない厚切りの食パンがよいであろうとバケツに一枚放り投げた。
翌朝、その様子を見るとパンが丸ごと残りザリガニの姿がない。
バケツ中の水気をすべて吸い上げた食パンはもはや半片のようであり、それをデュロンと割り箸でめくり上げると見事に全滅しているではないか。
予期せぬ事態に呆然とし、家族の共々から酸欠の指摘を受けて「あぁ、そうか」と思ったところに世帯の主である父親が現れた。
「パンに覆われ幸せ過ぎて死んだのではないか」
ボブディランをボディラインと誤読する父ではあるが、物事とは捉え方によって幸にも不幸にも展開してゆくものだとそこに教わった。
そして時を置かずに飼ったのはシマリスであり、警戒心が非常に強く人に懐くまで時間がかかると聞いていた。
しかしどうだ、蓋を開ければ初日からアグレッシブに愛を求めて来るではないか。
助走をつけてこちらの足に飛び乗り、ササと肩まで登ったかと思えば胸ポケットに入り込んで眠る。
ものすごく可愛いじゃないか。
そんな夏の終わりのこと、トランクス一丁で涼んでいると可愛いのがモソモソ内腿を辿ってその奥へと侵入した。
「メッ!やめなさいコラ!メッ!」
次の瞬間、キャン玉の皮の端をホチキスでパチンと打ち込まれたような、股間辺りで強烈なフラッシュが焚かれたような激痛が走る。
「ずぃぁ!!」というこちらの悲鳴にタタタと逃げるリス野郎。
局部を確認するのがどうにも怖く、パンツに手を突っ込み恐る恐る手の甲でポフポフすると若干の出血を認めた。
するとそれまでの愛情は一気に消え失せ、それ以降は恐怖心から奴に触ることができない。
それでも人肌を求めて来る小さな生き物に心は乱され、親戚より譲り受けた剣道の防具を完全防備して愛でようかと思い至った矢先、短パン姿の親父が片膝を立てて椅子に座る姿を見た。
新聞に目を通しながら横チンという名の新曲をリリースしているじゃない。
えらいショックを受けながらも凝視したその訳とは「色艶」「質感」がまるで胡桃と見紛うものであり、思わずピシと膝を打つ。
「あぁ!こないだ胡桃と間違えたんだ!」
それから一ヶ月後、親父のわんぱくな横チンに飛び掛かろうとするその愛らしい姿を思い出しては涙に暮れた。
近頃ではひょんなことから女子大生と知り合い、時々にメールのやり取りをしている。
「トイプードル飼ってんだっけ」
「うん、今髪型一緒なの。前髪ぱっつんで」
「あぁそう。でも間違いなくそのうち死んじゃうけどその辺の心構えはできてんの?」
「それはいつかは死んじゃうけどね。多分私すごい泣いちゃうけどね」
「もうそれ悲しみに片足突っ込んでるよな。なんならもうすでに悲しいよな」
「全然悲しくないよ。今から悲しむなんて損で不幸でしょ。そんなこというなら藻とか飼えばいいじゃん」
「こんな日本語を使う日が来るとは思わなかったけど藻は愛せない。藻を散歩に連れ出したら警察に顔面パンチされるでしょ」
「えー大丈夫だよ。藻と同じ髪型とかにすればいいじゃん」
「で、最期は藻だけに喪に服すってな。山田君!座布団ダッシュで持って来て!」
「山田君って山田孝之?」
「座布団と幸せを運ぶ山田隆夫その人よ」
「もうよくわからないからとりあえずその人と一緒に藻と同じ髪型にすればいいじゃん」
もはやこのようなイカれた小娘の戯言に付き合っている暇はない。
おれは愛玩たる小動物の死に対する誠実な心構えというものを求めており、その暁には牡牝に関わらず「うり」と名付けた顔面が大福のような茶トラのスコティッシュを飼うと決めた。
ハーネスを付けて駒沢公園を散歩すればその愛らしさにランナーたちの熱視線を一手に集め、そのまま246を渋谷方面へ向かえばまたその愛らしさにドライバーたちのよそ見を誘発、玉突き事故の多発などが予見されるがそれはご愛嬌。
そのまま上馬の交差点を左に折れて環七沿いを真っ直ぐ進むと駒留陸橋の高架下に居を構える現実に存在するホームレスおじさんを思い出す。
以前より見知ってはいたがしこたま飲んだ先日の帰り道、気が大きくなるままに二、三の言葉を交わすとそのまますんなりうち解けた。
おそらく年の頃で六十を手前、よれたスーツにつっかけを履きこなし一見にして福富町はポーカー屋の店員風情を思わせるが、その実、大手証券会社の研究所に勤めていた身分らしい。
それが証拠に口振りは至って穏やかであり、その根源は揺るぎない博識によって支えられているように見受けられ、世界情勢、心理学、宇宙論と話題は尽きず、こちらの質問には歯もろくにないがすべて咀嚼してわかりやすく説いてくれる。
玉に瑕は耳の方がギネス級に遠く、やかましいバイクが通り過ぎると「はいはい、それも一理あるね」と突然言い出したりもした。
思い返せばその脇には雑種の老犬がちょこなんと座していた。
おじさんはもうじきこの世を去るであろう愛犬にどのような思いを抱いているのだろうか。
求める答えがそこにある気がして鬱々とした小雨の中、手土産はタバコ二箱に老犬への心付けとしてワンパック三本入りの魚肉ソーセージを携えて高架下へ向かった。
道中、iPhoneに蓄えた曲をシャッフルすると「Summer」が流れ出す。
夏の始まりにして夏の背を感ずる心持ちもまた一興。
次第に雨足は強まり、傘を差して自転車に乗る若者がパトカーのスピーカーから大々的に注意を受けている。
ヘイポリスメン、その勢いでローションの中身ではなくその容器に滑ってすっ転んだ昨夜のおれも注意してくれないか。
ほどなく高架下へ到着するもおじさんの姿がない。
根元まで焦がした吸い殻の詰まるワンカップと健闘虚しく海苔が七割方置き去りになった手巻き寿司の包装フィルム。
物悲しい気持ちは陸橋をフライパンと見立て、炒飯を炒めるような音を発する雨路の軽トラに積載してやり過ごす。
しばらくその辺をうろうろとしてはみるが一向にその影が見えないとなると帰ろうとしたところで現れるのがこの世の通例であり、それに漏れずに現れたおじさんと老犬を微笑ましく感じた。
「あ、ども。こんばんわ。ちょっと聞きたいことがありまして」
「ん、なに?なんだって?」
「や、ちょっと聞きたいことがありまして。これタバコどうぞ。あとこれはワンちゃんに」
「おぉ、悪いね。ありがとありがと。いやぁ、それにしても雨が止まないねぇ」
老犬は濡れた体をブルブル震わせ、おじさんはその飛沫に「ちべて」と返した。
それから他愛のない会話をかさね、いざ本題へ切り出そうとするも老犬を撫でつけるその姿に見入ってしまう。
刻一刻と過ぎ去る老い先短い愛犬の現在を汚れた手でそこに留めようとしている。
「今日は何が聞きたいの?」
「あ、んん、なんだろ。忘れました」
「なんでも答えるよ。こんなに貰い物をしたらなんでも答えなくちゃね」
「いや、本当に忘れました。まぁなんですよ、忘れるほどのことですよ」
「遠慮はよくないよ。ほらなんでも答えるから」
「死期が迫るワンちゃんにどのような思いをお持ちですか」
ワンちゃんという響きが柔軟剤のような働きを得ては語気の角を削り、咄嗟にして完璧に近い形で伝え切れた。
しかし向こうの表情はとても窺えず、老犬を撫でる手が止まったところから険が出ているやも知れない。
「何ラストエンペラー?」
「え!?」
「うん、だから何ラストエンペラーって言ったの?」
「でぶラストエンペラー」
「あぁ…はいはい、でぶラストエンペラーね。んん、なんだろうラストで気が緩んだのかねぇ。揚げたバナナでも食べ過ぎたんでしょう」
fin