新年明けましておめでとうございます。
なにやら今年も早々に騒がしく、年下の者が婚約中の彼女と電話越しに小競り合っており、近く伴侶となる者に向かって「なんでそうなるんだよ!この田舎侍が!」とは穏やかでない。
彼が電話を切るや否や、ある種の礼儀として間を置かずにその理由を尋ねた。
「いやアホがピーマンを挽肉に詰めているんですよ!」
平時に温厚である彼の剣幕から春先に控えた結婚式にて白無垢の上からブルマを履きかねないとまでその不安は飛躍しているのだろう。
彼にはすまないがこちらの正直なところを申し上げると常識に囚われない彼女の自由さが嫌味でなく羨ましい。
思い返す我が人生、ロックンロールだなんだと託つけては数々の不埒な言動に及びながらも結局は常識という名のプールの底を足先でツンツン確認していた気がする。
聞くも涙、語るも涙、とうとう二本のパイ毛が真正面に伸びようとしているお年頃、どうやら常識に囚われない自由なるものを多角的に検証する時を迎えたようで。
ささいな所用を携える外出にさえどこか深刻の感がつきまとう冬。
それが冷たい誘い水となり塀の向こうを定宿とする男が唯一娑婆に残した言葉をなぞる。
「棒棒鶏の棒の字はひとつ減らしてもよくないか」
やはり法律の外側、常識の外側に生きる男の言葉には重さは元より自業の得とはいえ抑圧からの解放を願うどこまでも自由に焦がれた響きがある。
寒空を仰げば名も定かでない鳥の群れが凍雲を背に闊達と飛び回る姿をみた。
また近所の変なおじさん代表を務めるよしゆきちゃんが新年の挨拶を欠いた自販機にキレている姿をみた。
さらにバス停から絶妙な距離を取ることでバスを待っているのか、それともそうでないのかが非常にわかりづらい新人バス運転手殺しのストロングスタイルで佇むおばあさんをみた。
こんなにも身近に常識に囚われない自由が溢れているとは存外であったがそれほどの感情は動かない。
それよりも自由とは当事者にその自覚はなく、それに際した他者が始めて感じるものだという実感を強く受け、その印象は死に同じ、また表裏の理から生にも同じと思い至る。
生きることは自由、死ぬことも自由という極めて捉えどころのない厳たる真実に我々人間は絶望する自由をも有するところに新たな自由がまた生み出されてゆくのだろう。
世田谷通りに徒を拾う。
自由を妄りに深掘りした為に心は暗く沈み、不自由になりかけていた。
ここはひとつ実家へ遊びに来ている甥との通話から無垢で瑞々しい自由に思い描く夢を抽出したい。
「お、あけおめ。どうなのよ、ぶっちゃけ将来は何になりたいんだよ」
男児が憧れる定番としてはパイロット、警察官、プロスポーツ選手、はたまた時代に感化されたプロゲーマー、ユーチューバーといった線もあるのか。
彼は「将来も自分だよ」と答えた。
なんと端的でいて詩的且つ機知に富んだ上で含蓄溢るるには哲学の崇高なる領域を自由に駆け巡っているではないか。
自分が彼ぐらいの年頃ではキョンシーを倒すことが夢であり、枕元には三十センチ定規と交通安全のお札を常備していたというのに。
とはいえ、知らぬ間に頼もしく育っているようで喜ばしい。
そんな賢い彼に限ってそのようなことはないとは思うが、この先々に大人を舐めるようなことがあってはならぬと教えるなら今、豊富な知識で圧倒するのもまた叔父に課された務めであろう。
「もしもし、あの、あれだな、インバウンドからのエビデンス的なアジェンダはもう勘定奉行だよな」
もはや自分で何を言っているのかさっぱりわからないが電話の向こうで彼がケラケラ笑うのでそれで良しとする。
ショーウィンドウ越しのタヌキ風赤ちゃんポメラニアンに暫し見惚れてペットショップ。
そこへ若い男の店員がこちらの側について「昨日入ったばかりの男の子です」という。
昨日入社したのかも知れないが自分のことを男の子と呼ぶのはいくら多様性の時代とはいえ社会通念を著しく逸脱するものではないか。
大袈裟な戸惑いを眉間に示してみせるも彼はいつまでもニコニコしてやがる。
おそらく自由を求める余りこちらが無意識に引き寄せているのだろう、またもや大胆に自由を振りまく者と出会ってしまった。
「基本的に好奇心旺盛で人懐っこいですね。あとは関節の病気に気をつけて頂ければ」
彼の繰り出す我を前面に打ち出しまくった自己紹介に嫉妬混じりの嫌悪を覚え、詰まるところ自由とは程々の距離を置いて鑑賞するに限るらしい。
愛らしいタヌキ風赤ちゃんポメラニアンとの別れを経て茶沢通りを下り、本日の目的である銀行にたどり着く。
番号札を手に着席、辺りをぐるり見回すと壁一面に小学生による無数の書き初めが貼り出してあり「お正月」「賀正」「迎春」といった書面より仄かに立ち昇る篳篥や和琴の調べを受けてなんとも雅な心持ちとなる。
だがそれも束の間、正月縛りなど知るか!と言わんばかりの自由ほとばしるスピリットが一部の書より強勢と放射されているではないか。
親族の縁をすべて断ち切って「バドミントン」と書す者があり、さらに隣の席であったのだろうかそれに触発されて「ラケット」と追随する者まである。
いやはや自由とは感染してゆくものだという確信と近年における世界的な感冒症候群を重ね合わせては感涙に堪え、潤む脇目は「軽き石」という新たな萌芽をみた。
fin