梅雨煙る世田谷、あじさいより露玉堕ちては迫る都議会議員選挙。
いつかの雀荘よりつい履き帰ったサンダルをつっかけて日用品の買い出しへ向かう。
大きな水溜りを前に年甲斐もなくLR同時押しのわんぱく大ジャンプを繰り出しては自分のことが少し嫌いになりそうで逡巡、そこへ廃品回収車に対向する形で選挙カーがやって来ると互いの街宣が一時交じり合う。
「ご地域の皆様、私この度立候補しました不要になったゴルフバッグと申します。壊れていても構いません」
もう何のことだかさっぱりわからないが、そこには日々を営む清らかな民の響きがあった。
公園に差し掛かると傘も差さずにポスター掲示板から数センチという近距離から凝視する前世が煽り運転であったに違いないおじいさんを見た。
多少のやり過ぎ感はあれど、その佇まいは「都政とは己の生活である」とこちらに切々と語り説くようで。
三軒茶屋の駅前では候補者がマイクロフォンを用いて公約を掲げ、思い返せば数年前のこの場所でおれはひとりの男をある意味で当選させている。
「なんかいいナンパの仕方ってないすかね」
「あぁ!姫君ではないですか!私です!私ですよ!前世に家臣であった◯◯にございます!お忘れですか!ってのはどうよ」
「その◯◯はどうしましょう」
「名前なんてその辺の看板から適当に拝借すりゃいいのよ」
彼はさっそくスタバから出て来た女性に照準を絞り「あぁ!姫君ではないですか!」とおっ始めた。
たじろぐ女性など意に介さず「私ですよ!前世に家臣であったジーンズメイトもんじゃにございます!お忘れですか!」と捲し立てる。
おそらく姫君はジーンズメイトもんじゃという血迷った名の家臣など忘れたいし、何よりそれは冴えない大学生のデートコースじゃねぇか。
斯くして戦局は極めて劣勢に見えたがどうだ、そのうち彼女はクスクス笑い始めたではないか。
するとあれよあれよと事が進み、連絡先の交換、初デート、うれしはずかし朝帰り、惚れた腫れたの別れる別れないの末に祝言を挙げるというめでたい運びとなった。
そのようなことを思い出しながらその場を離れ、福太郎にて所用を済ませると右手にトイレットペーパーシングル十二ロール、左手には五箱を縦に連ねたスコッティ・ティッシュを二つ抱えキャロットタワーは地上百二十六メートルを見下ろす展望ロビーへ向かう。
二十六階直通のエレベーター、服屋の姐さんに教わったYoung GuvはRipe 4 Luvが頭の中で流れるとそのまま鼻歌に漏れたところで独りであり、そこに先客の疎ら具合を推しはかる。
閑散とした展望ロビーは想像通りであったが、梅雨空のパノラマは「無音のジョイ・ディヴィジョン」と物憂げに形容したいほどに素晴らしく、地上であくせく選挙活動に勤しむ人々を天空から見下ろす優越感もそれに尽くしていた。
だが、心揺さぶる光景を塗り潰す思いが降って湧く。
「この様に大量のペーパー類を持ち込んだ客は竣工以来おれが初なのではないか」
このような自意識の隆起により他者の視線に蔑みを感じると頰をほのかに紅潮させては一度トイレへエスケープ、尿意など全くないが一応便器の前でちんたまをポ、ポロンと律儀にさらけ出してはすぐさま仕舞い込みハウス、そして洗面台では近頃のおっさん化現象から左瞼が二重になりつつあるのを確認、その後は入念に手を洗うと気を取り直してはロビーへ舞い戻る。
数分の間に客の配置に若干の変化があり、己の身にもなにかしらの変化を感じ取った。
すわ、洗面台に大量のティッシュをそっくり忘れて来たではないか。
なんだろう、このカラオケにマイマイクを忘れて来たような心持ちは。
しかし辺りに動揺を悟られてはならず、ここはひとつパリコレのランウェイさながらに鋭く踵を返す。
「おれは地上百二十六メートルで一体なにをしてんだ」とは思うも、所詮人間などは宇宙ステーションでも使用後の糸ようじのにおいを嗅ぐ生き物じゃないか。
若い男女が「世田谷線小っさ!世田谷線小っさ!」と大声ではしゃぎ、意味のわからないハイタッチを交わす。
「おうおう、田舎からのこのこ出て来たカップルさんよぉ、早くジーンズメイト行ってもんじゃに行きゃがれ!」と心内に轟かせながらその方を見下ろすと、これが小さい、世田谷線が思いの外に小さいじゃない。
「世田谷線小っさ!」
こらハイタッチも無理はないなと妙に得心を覚えたところで男が女に「はい、オレンジ色の屋根の家はどこでしょう」と突然の出題、受けて女は身を乗り出し「え、え、ちょっと待って、あ!あった!」と指を差し「じゃあ今まさに引越しをしている人はどこでしょう」などと切り返す。
他愛もないやり取りではあるが、別れた数年後の秋口辺りに「あの人は今頃どうしているのでしょう」と各々自らへ出題するのだろう。
さて、お次はどの方面を拝もうかとトイレットペーパーをボスボス蹴っぱくりながらうろついていると車椅子のおばあさんに介助の者が寄り添い景色を眺めていた。
「残念ですね。今日は雨だから富士山は見えませんね」
そこへ次いだおばあさんの言葉をおれはこの先々、折に触れて反芻することだろう。
「でも向こうからこっちは見えている気がするの」
それは都政然り、愛に然り、その真実を求めれば求めるほど見えなくなってゆく。
しかし、その事象は常に不動としてこちらを見つめている。
人は時として銘菓雷おこしのようなパーマの仕上がりに明日すら見えない日もあるだろう。
しかし、明日という日はしかとこちらを見つめてやまない。
おばあさんの金言に明鏡止水のごとく心が研磨されるとそのままタワーを降り、帰路に就く。
街の穢れを避け、足早に、人々の邪心を避け、足早に。
眼鏡屋の店頭に立つピンクの法被を着た店員の男がポケットティッシュを差し向けて来る。
右手にトイレットペーパーシングル十二ロール、左手には五箱を縦に連ねたスコッティ・ティッシュを二つ抱える者にポケットティッシュを差し向けて来る。
とても義務教育を修めた者とは思えない彼の状況判断能力にこちらはただただ悠然と見つめる他にない。
そう、あのマウント富士のように。
fin