お狂気入門の門

 

落語の大河、その中洲にて江戸文字と出会って久しく、近頃ではご縁がありその道の師に手解きを受けている。

師が常々口にされるのは「その筆跡に江戸の風情を」というお言葉であり、ときにこちらの無理なリクエストに応えて「ミンティア」と勘亭流に書されたのだが、それは見事に江戸は八百八町、裏長屋の掃き溜めに至るまで清涼なる薫風が吹き抜けるようであった。

そんなつい先日のこと「江戸文化と庶民の暮らし」というイベントの一枠に江戸文字の精通者として師が招かれた。

「ご来場の皆様が江戸文字に触れて少しでも親しんでもらえれば」

そのような師の慎ましい動機からこちらも快く随伴させていただいたのだが、会場である小さな会議室に着くなり驚愕の光景が待ち受けていた。

受講者、三名。

内二名が頭部をスカーフで覆った外国人女性であり、残るは中年男性のみ。

そのうちにわんさと集まってくるのだろうと楽観していたのだが、結果として一時的に中年男性がお手洗いに立っては受講者二名、彼が戻ることで従来の三名となりそのまま定時を迎えた。

こちらはおこがましくも師への気遣いから最前列のど真ん中に陣取り、その背後の列にお三方が座するというフォーメーションが形成され、そのうち半纏姿の師が現れると若干の前屈みに揉み手をたずさえた一礼は見事に江戸を憑依させた米問屋の番頭のようであった。

 

師はホワイトボードを多分に活用されては江戸文字の起源にまで遡り、同時期の西洋文化にも触れることでその背景を分かり易く立体的に示され、崩しの規則性を統括した御家流に付随する広義と狭義の解釈を途切れなく小一時間に渡り熱く講話なされた。

物音ひとつ立てない背後の動向が気になる。

さりげなく振り返ってみたところ、外国人女性たちは言の疎通が叶わぬことでさらにも増して異文化に引き込まれているご様子。

そして中年男性は睡魔と丁々発止の死闘を繰り広げており、首は座らず、目は寄り目、口は半開きといった末期の様相を呈していた。

この顔、近頃にみた覚えがある。

そう、徹マン明けで子供の運動会に参加し散々走り回った後に父兄の飲み会に突入、その後再び雀卓に舞い戻ったあいつの東二局の顔ではないか。

とはいえ正直なところ、こちらも集中に欠けてきた。

受講中ではあるがポケットよりガムを取り出してみれば「Clorets」という表記が目に入ると「C」の中に赤い玉のようなものが幽閉されていることに気づく。

師はひたむきに身振り手振りの解説を続けているが、まさか目前の愛弟子が「C」と「l」に閉じ込められた赤玉を慮りて同情、それでも僅かな光を宿している様に前向きな含蓄を見出していたとは夢にも思わなかっただろう。

 

ホワイトボードに番付表が貼り出されると相撲字の講釈と相成る。

外国人女性のふたりはかの熱量をキープすること最早その眼差しは上がり座敷より稽古を見守る親方のよう。

中年男性も引き続き睡魔に土俵際まで攻め立てられてはいたがどことなく諦めを纏う一種の光悦が見て取れると、それはあたかも一人娘が紹介したいと連れてきた男がついぞ持参の割り箸ゴム鉄砲を片時も手放すことはなかったという表情であった。

「さて」と師、こちら受講者の四名を呼び寄せれば江戸文字の実地体験となる。

先ずは師が手本として墨をたっぷりと湿した筆で江戸情緒ほとばしる「正」を書き起こせば喝采が起こる。

「それでは皆さんもお書き下さい」

その声にすかさずの反応を示したのは外国人女性の二人組。

異国の方が古来より脈々と紡ぐジャパニーズ・カルチャーに嬉々として臨むその姿こそ師の本懐であると察するに涙腺が緩む。

外国人女性たちはどちらから書すかについてこれもまた嬉々と話し合っており、それでも埒が明かないという流れから各々手の平に拳を乗せポンポンと勢いをつけては異国のじゃんけん的な展開を目の当たりにした。

独特の掛け声と共に、片や手を蛇のように、片や熊手のような形を取る。

熊手の彼女がガッツポーズを決めればどうやら勝ったとみえ、敗者である蛇の彼女は「ウォーター」とのコメントを残した。

わからない、ウォーターがわからない。

それは会議室に満ち満ちた江戸文化が突如として異文化にひっくり返された瞬間であった。

さらに熊手の彼女が書き上げた「正」に際して中年男性が「僕も正です」とこれまた異文化なタイミングで自己紹介に及ぶ。

あの日、あの時、あの場所のみに生じた名もなき真理。

それは異文化とは国で別れるものではなく、異文化とは個々人に別れる宇宙のことであった。

 

「これをもちまして私の江戸文字講義を終わらせていただきますが、最後に何かご質問などございましたらお答え致します」

質問者、0名。

なんとも歯切れの悪いフィナーレにこちらが頭を抱えていたところで中年男性が気を使ってか「お好きな食べ物はなんですか」と体育館の天井に挟まったバレーボールのような質問を発した。

「茶豆でした」

その帰路、馴染みある師と並んで歩いてはいるが異文化という目に見えぬ壁を感じていた。

同じ人間という生き物ではあるが、この瞬間に何を思考しているのかまるでわからない。

ことによれば「強制送還では機内食は出るのか」という自問に思いを巡らせている可能性もゼロではなく「やはり強制送還なのでタラタラしてんじゃねーよが一袋だろう」という結論に至っていてもなんら不思議はない。

わからない、茶豆に対する私怨もわからない。

目の前をゆく自転車のおじさんがカゴにカゴを入れている。

わからない、もうおれにはわからない。

 

fin