麝香街

 

先夜のこと、祖父より継ぐ焼肉屋を営む者と飲み交わす。

和食屋の個室にて種々と語らえば下戸である彼がハイピッチでグラスを空ける様より心中穏やかでないことは明らかであり、そのうち椀の海老しんじょを見つめつつに「うちの店はもうダメだ」と言い始めた。

尋ねるまでもなく長らく続いたCOVID-19を因とする客離れに重なり昨今の世界情勢における原材料の高騰などといった理由かと思いきや、彼はその矛先を驚くべき場所へ向けていた。

「千円カットの髪型が変だから客が離れたよ」

たしかにパキスタンの靴飛ばしチャンピオンみたいな髪型ではあるが、降りかかる経営難をそのまま千円カットの責とするのは筋違いというものであろう。

「大切に乗っていた車も売ろうと思う」

「そして火の車に乗り換えると」

彼はこちらの反射的な失言を飲み慣れぬハイボールの痛飲でもって受け流し、酔いどれにも仕切り直しては鞄よりスマホを取り出した。

「このままでは、このままではあれよ、天国のじじじいちゃんに申し訳が立たないのよ」

彼の差し出すスマホには常軌を逸する修羅の形相を表したおじいさんが映し出されており、なんでも生前の老人ホームにて行われた口じゃんけんの決勝戦を接写したものだという。

決勝という大舞台にテンションが上がり過ぎたか、たぎる口元は口じゃんけんの体を成してはおらず力んだ拳のみが通常じゃんけんのグーとなっている。

「決して、決してあれよ、人と争うことのない優しいじじじいちゃんだたよ」

梅のジュレを奇跡的に眼鏡のブリッジにのせて酔っ払う者に「力の限り争ってんじゃねぇか!」などと突っ込んだところで野暮というもの。

「そっか、優しいおじいちゃんだったんだ。それなら廃業してもお前が元気なら許してくれんべ」

彼はアルコールに巡るつぶりを抱え、消え入る声でこちらに謝意を示しては「俺、もうちょっと頑張ってみるわ」とすすり泣いた。

そして時と場を忘失しフグの唐揚げを配しに現れた女中さんに「いらっしゃいませ」といった。

 

翌日の昼下がり、昨晩の彼より連絡を受ける。

「やめようと思う、店」

「涙ながらに再起を誓った昨日の今日じゃねぇか。どうしたんだよ」

子曰く売り払う予定であった愛車のボンネットに「自転車」と悪戯に刻まれていたという。

彼は「もう人間が信じられない」とつぶやき、湧き上がる怒気に任せて「百歩譲って普通うんことかじゃないんですかね!?」と取り乱しては一方的に回線を切った。

小風がカーテンの裾を揺らすことで小風が可視されるよう。

ベランダより見下ろす遊歩道には犬のうんこをうんこ座りで処理をしているうんこ色のTシャツを着たおじさんが無自覚の統一性に生きる。

 

fin