お通しの胡麻豆腐で差し歯が抜けた友人の第一声は「神様、私が一体何をしたというのですか」という敬虔な語気を穏やかに含むものであり、こちらとしては如月の序の口に相応しいなんとも清らかな心持ちとなる。
「もういい加減ハンドスピナーはやめなさいと神様からのお告げだろう」
「あぁ、そうか。そうですか」
「今どき張り切ってやってんのはお前とパプア・ニューギニアの子供達だけだ」
「あぁ神様、厳しくも温かいご忠告だけでなく歯を飲み込まずに済んだそのご加護にも感謝致します」
それから小一時間ばかり差しつ差されつの盃を交わしていたが「神様、私が一体何をしたというのですか」という彼の発言が心のささくれにずっと引っ掛かっていた。
思えば長きに亘るコロナウィルスの流行により陰鬱な日々をただただ消化するばかりであり「神様、私が一体何をしたのですか」と純な眼差しで宙に問う個人的な出来事も久しくなければそれは生きた屍に同じ。
彼が差し歯をティッシュに包み、それをポケットに入れる手前で「もうそろそろお開きにしようか」という。
「もうちょっとひとりで飲んで帰んわ」
退店する彼には一瞥もくれず、先刻の清らかな心持ちはどこへやら、煮え切らない己の生き様に生来の狂気がくすぶると手の甲を楊枝で強かに突く。
プツと丸く浮き出た鮮血に生の安堵を覚えると徐々に広がる暗褐色の孤島を上空からしばらく眺めていた。
叩きつけて丸め、捻ては伸ばし、美しいメロディーを発する粘土を用いて優雅な交響曲を奏でながらイカリングを作り上げたところで違法カジノ時代の先輩である大野さんが現れ「よくも俺のブタミントンを!」と突然の怒号を上げ、殴り合いの喧嘩の果てに目が覚めた。
枕元の携帯には数件の着信が残っており、留守電にもメッセージが入っている。
「あの、えっと、ちょっと頼みたいことがあって、ん、連絡ください、はい」
彼はシングルファーザーという襷を掛けて日々子育てに奔走しており、近頃では良い意味で疎遠となっていた。
そのように奮闘する男からの頼み事であれば一も二もなく引き受ける心構えで電話を折り返す。
「あぁ、ごめん、寝てたよ。どうしたの」
「申し訳ない。地元で急な不幸があってすぐに行かなくちゃならないんだけど、娘の人形を一晩だけ預かってくれないか。状況が状況だから持って行けないんだよ」
「あぁ、それはそれは。全っ然いいよ。向こう一年でも二年でも預かってやんよ」
「すまない、今からそっちに向かうから。本当にありがとう」
ほどなく車が着いたようでエントランスまで迎えに出ると彼はピンクがかったシースルーバッグをトランクから取り出していた。
そこには小さな家具のような物が多数、そしておもちゃの哺乳瓶を確認する。
「おう、久しぶりじゃねぇの。なんだか、なんだか大変だね、しかし」
「あぁ、本当に申し訳ない。このお礼はいつかするから」
そこへ妙にリアルな人形を抱えた小さな娘さんがモチモチやって来ては父に促されてこちらに挨拶をした。
「こんにちは……ぽぽちゃんをお願いします」
「お、こんにちは。ぽぽちゃんっていうの。わかったよ、大切にお預かりします」
そして彼女は今生の別れのように涙々の車窓からいつまでも手を振り、こちらもぽぽちゃんの手を握りいつまでもそれに応えた。
現在とあるバンドから歌詞の依頼を請けており、昨晩のポストに音源が届いていた。
「現代社会に対するピリッと皮肉めいた歌詞をスモーキーなチルブルースに乗せて欲しい」
前以てそのような要望があり、貰い受けたCD-Rを再生するとスティーブ・ソレイシーなる男が教鞭を執る英会話の授業がみっちり収録されていた。
「こちらの大胆な聞き間違いかも知れん」
大きく気を取り直そうと少しその辺を掃き掃除、その間に湯を溜め、加湿器の水を足し、ドクターマーチンの靴紐を黄色に変え、ユーチューブでシルクロード鉄道と検索、十五秒に一回「もこみち若っけ!」と言いながら鑑賞、髭を整え入浴、風呂上がりは入念な耳掃除に次いで「あ、あ、ワンツーワンツー」と聴力チェック、そして祈るような気持ちでCD-Rを再生するも引き続きスティーブ・ソレイシーが英会話の授業をしているではないか。
「神様、私が一体何をしたというのですか」
単に送り主が誤送したのであればまだしも、これぞ英会話の授業にしか聞こえない最新のスモーキーなチルブルースであった場合こちらの指摘はアーティストへの侮辱にあたる。
さて、これはどうしたものかと思案をしていると次第に睡魔に飲まれ、とろとろ落ちた。
着信音に起こされ、寝惚け眼に画面を覗けばFaceTimeという表示があり、それを素直に取ると不祝儀の場へ向かった彼の姿が映し出された。
「あ、どうも、今着きました」
「んん、そか、お疲れさんです。そか、うん」
「娘がぽぽちゃん今何しているの?ってうるさくて。ちょっとだけ映してくれないかな。すいません」
「ぽぽちゃん?あぁ、ぽぽちゃんね、ぽぽちゃんは今……ちょっと待って」
玄関の方へ視線を移すとぽぽちゃんはおでこを床につけて尻を突き上げ、新日本プロレス伝統トレーニングであるライオン・プッシュアップの途中体制に入っており「ぽぽちゃんは今筋トレしています」とは言えず、慌てて抱きかかえてはカメラの前へ突き出した。
すると父を介した娘さんから手厳しい指導が入る。
どうやらぽぽちゃんが今着ているものは余所行きのお洋服であるらしく、速やかに部屋着なるものへ着替えさせろとのこと。
ピンクがかったシースルーバッグより様々な家具や哺乳瓶を取り出し、洋服が大量に入ったポーチを見つけ出すとようやく指示の通りの格好をさせた。
「あとミルクを飲ませる時間だと。本当にすまない」
「いや、預かった以上はやるよ。気にすんな」
カメラ映りを意識したベストアングルでミルクを飲ませると哺乳瓶より「ゴクゴクゴク」と音声が鳴る。
「へぇ、今のおもちゃはすごいね、しかし」
なにかその様が愛らしく思え、ぐいぐい大五郎ばりに飲ませていると「ゴクゴクゴク…うぇーん!」と突然泣き出し、娘さんは画面から飛び出す勢いで「ちっち!ちっち!オムツ替えて!」と叫ぶ。
言われるままに従い、オムツをぺりぺり剥がし、予備のものを履き替えさせたところで娘さんより「はい集合集合!一回拭けや!このバカチンが!」のような叱咤を受けて「さっせん!」ともう一度脱がせてウエットティッシュで局部を拭き拭きしては「ふぃー」とひと段落。
そしてつい気の緩みからズボンの上からオムツを履かせてしまう。
もう娘さんは画面の向こうでそれはそれは激しく地団駄を踏み「これだから工業高校は!」と言いたげな怒気をこちらに向けて大泣きした。
ぽぽちゃんは体の構造上、入浴は完全なNGであり就寝前には必ずパジャマに着替えさせてから髪を梳かせとの言付けを受け、それを忠実に守ったのは彼の為、あるいは全世界に点在するシングルファーザーへの声援という捉え方をしてもらって構わない。
「さ、ねんねしましょう、ねんね」
ぽぽちゃんをおもちゃのベッドに寝かし付けようとしたその時、恐怖のFaceTimeが鳴り響く。
「あぁ、夜分にすいません。娘が寝る前にもう一度ぽぽちゃんに会いたいと」
「あぁ、はいはい」
首元までぴっちりボタンを留めたパジャマ姿、艶めくヘアに抜かりはない。
しかし娘さんは即座にナイトキャップの不備と就寝前のおしっこをこちらに申しつけた。
帽子を被せておもちゃの便座に座らせると「チョロチョロチョロ」と音声が流れることで放尿終了。
滞りなく諸々を済ませたはずが「オムツ!オムツ!」と力の限りに連呼している娘さんを解せずにいると満を持してオムツをつけたまま放尿させてしまった。
その罪は重く、謗りを免れる術もなければ又しても大泣きをさせてしまうかと思いきや、忙しない一日の疲れが小さな体にのしかかってか「あなたはもう馬鹿の特許を取りなさい。ね、悪いこと言わないから」という諦めムードを画面の向こうより気取った。
「ぽぽちゃんを横にすれば目は自動的に閉じるから」
これはシングルファーザーとして堂に入る男からの信頼できる言葉なのだが、はて、床の中から天井に向けて目をフルオープンさせているぽぽちゃんは一体どのような了見なのだろう。
もしや故障ともなれば娘さんの怒りは頂点に達し、ガムテープですね毛を抜き倒された挙句、その本数分のビンタがこちらの頰に叩き込まれる。
強引に目を閉じさせるも絶妙な間をもって「お待たせしました」と言わんばかりに瞼がツイと持ち上がって元の木阿弥、そのうち唇を頻繁にタコにする中学以来のチック症状を発症すればこちらの限界はすぐそこまで迫っていた。
「神様、私が一体何をしたというのですか」
しかし、迫っていたのは神が放たれた眩い光の群れ。
「あぁそうか!いつもと違うお家だから寝付けないってか」
ぽぽちゃんの頭を撫でると絵本でも読み聞かせようと即席の親心が芽生えた。
「確かすてきな三にんぐみがあったな。どこやったっけ、ちょっと待ってな」
いくら探しても絵本は見つからず、偶さか長年に紛失したドライヤーのヘッドが大山椒魚のぬいぐるみ、その腹部に滑り込んでいたところを発見しただけでも良しとする。
「はい、絵本がないから江戸文字入門でいいね」
それから勘亭流、寄席文字、相撲字という流れで懇々と言い含め、通人石井三禮翁の半生にスポットを当てたところでぽぽちゃんを窺い見るとこれがまたギンギンと開目しては寝そびれている。
ならば物は試しの心許ない最終手段、スティーブ・ソレイシー先生にご足労を願い英会話の授業を聞かせればそのうちうつらうつらと瞼が重くなるやも知れない。
おもちゃの洗濯機、そして物干しスタンドが目に入ると明日はスパルタ洗濯道場が待っているのだろう。
スピーカーからは優しげな声色で誘う異国の言語文化、それにまどろみ真っ先に寝入ったのはこちらの方という。
fin