ひすい

 

先日、五本木に構える小さな喫茶店がその営業にピリオドを打った。

そこの店主とは数年前に知り合い、連絡先の交換などは一切せずとも奇遇に再会しては飲み交わすという縁を重ね、かの店がオープンする際のレセプションパーティーに招かれた。

ほろ酔い加減に「なんで六本木じゃなく五本木を選んだの?」というこちらの不躾な問いに彼はこう答えた。

「木が一本足りなかったんだよね。勇気という名の木が」

言い淀むことのないその返答は前以て熟考されたものとみえて、連れの者が吹き出すと店主は憎々しいほど満足気だった。

しかし、それよりも忘れられない出来事が五本木に向かう車内で起きている。

ドライバーは連れの者であり、彼は平時において紳士であるがハンドルを握ると超攻撃的な人格に変貌する。

信号待ちでは激しい貧乏揺すりで車体を揺らし、横断歩道を渡るホームレスのおじさんにもそれはそれは手厳しい。

「税金払ってねぇんだから信号を渡る権利なんかねぇんだよ!もみあげを轢かれやがれ!」

そして前を走る「IWAIDA TAXI」にもその毒牙は及ぶ。

「岩井でいいじゃねぇか!余計な田をそっと付けてんじゃねぇよご先祖さんよぉ!」

「まぁまぁ落ち着けよ。音楽でも流してさぁ」

幾分か落ち着きを取り戻した彼は近頃聴いているという八十年代ジャニーズを再生する。

車内に流れる仮面舞踏会と世田谷公園から出て来た人類史上最も短い短パンを履いてランニングに勤しむおじさんのコンビネーションに吹き出すとその拍子に思い出した。

「ちょっとニュース速報が入ったんだけど」

「早く言えよ」

「おれ二十八ぐらいまで歌詞の仮面でかくしてをずっと仮面デカくしてと思い込んでたわ」

連れの者は神妙な面持ちで前方を見据え、丹田に気を込めて放った。

「従来のサイズではご不満ですかい!?」

 

この度は残念ながら看板を下ろす運びとなってしまったが、店主の彼にとっては煩わしい悩みから解放されたと捉える向きもあるのではないか。

以前池尻の飲み屋で例によって偶然の再会を果たし、そのまま酌み交わしては談笑に至った際のこと。

過去現在未来において小学校の校歌には絶対に使われないであろう言葉を挙げてゆくゲームが始まった。

ジャンピング・ニーや高校、はたまた部分入れ歯やとばっちりなどが出揃うもこちらが挙げた「そぼろ」という響きが逸品だとその栄冠に輝く。

しかし、ややあって彼はそれを取り消した。

「やっぱりそぼろはダメだ」

訳を尋ねると万が一ではあるが酔狂な作詞家が「そぼろポロポロ、思い出ポロポロ」という歌詞を付けるかも知れないという懸念を示し、それは経営者たる者の先見の明を垣間見た瞬間だった。

「そりゃそうと店の方はどうなのよ、オーナーさん」

彼は竹串をタクトに散らばる思考を指揮するような仕草の終に「脱サラして自営をする人たちはみんな思う。結局働くことに変わりはない」と発した。

すまじきものは宮仕えとは言え、自ら営む者にも苦悩や重圧は容赦なくのし掛かるのだろう。

そして竹串をへし折るとその心内に棲む悩みを明かしてみせた。

「毎日見栄晴にそっくりなお客さんが来るんだ」

 

どのような箸使いをすればそのようになるのか、どう贔屓目に見ても彼のおでこにチャンジャの欠片が貼りついているではないか。

その真面目な顔つきから即時の指摘は憚られ、よくよく拝するに彼自身がチャンジャに貼りついているようにも思えて妙。

「それ場所柄ご本人さんの線もあんじゃないの?」

「そうなんだよ、だから困っている。本人だった場合タレントの性質上そっとしておくべきなのか。それともまたタレントの性質上お声がけの一つもした方が良いものか。馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、うちのような小さな店は小さな心遣いから成り立っているんだ」

「偉い。それは見上げた心がけだわ。まぁ何にせよとりあえずは本人確認だべな。そっからは自然に広がってくんじゃない?」

「あぁいいね。自然に広がる感じ、それベストだね」

それから一週間が経ち、懇意にしている従業員からついにオーナーがかのお客さんに接触を図ったとの一報を受けた。

忍びの如く抜足差足でその背後に回り込み、お盆で人目を遮って話し掛けるとすぐさま深々とつむりを下げては速やかに戻って来たらしい。

従業員の彼曰く、その一連の様は誤って交番へ侵入したスイカ泥棒のようであったと。

「見栄晴じゃなかった。生まれて初めて言われたって」

ヤング過ぎて見栄晴をよく知らない彼がその返答に窮しているとオーナー自ら和風ピザトーストを焼き上げ、謝罪に添えてお客さんに献上した。

ここでこちらの私見を明かせば人違いは特段失礼に当たらない気がする。

しかし和風ピザトーストまで駆り出した大々的な謝罪によって自らが三つ指ついて失礼を招いているのではないか。

そんな彼の生真面目が時として報われ、ある雑誌に取り上げられたことがある。

取材の前日は入念な店内の清掃、その仕上げに散髪へと勇んだところで奇しては火曜日にあたり、よせばいいものの奥さんが一世一代の晴れ舞台だと自棄っぱちに鋏を入れた。

するとどうだ、園児が描いたお父さんのような素朴さと無政府状態をそのまま落とし込んだ髪型となり、整髪料を塗りたくってみるもどうにもならず、一旦は自殺も考えたがそのまま翌日の取材に臨んだ。

「うちの看板メニューはこちらの和風ピザトーストでしてね、えぇ。京都の九条ネギ、湘南のシラスをふんだんにトッピングしております。さ、皆さん冷めないうちに」

それが取材陣に振る舞われるとそこここより明るい声が上がり、オーナーがそれを喜んでいるとカウンターのタバスコがカタンと倒れ、衆の視線が一斉にその方へ向いた。

そこで繰り広げられたのはネズミがゴキブリを追い掛けるという飲食店では決してあってはならぬ大アクシデントであり、女性の短い悲鳴が響くとナボナの落ちる音でさえも聞こえる静寂が訪れた。

すると極限状態に晒された変な髪型のオーナーに鹿児島方面の貴婦人が憑依。

「ハムスターとカブト虫を飼ってごわすの」

露骨な苦し紛れであるが出版社の方々には柔軟な良識と職業柄の探究心が備わっており、果敢な一人の女性がその泥舟に乗り込んでみせた。

「名前はなんと言うのですか…?」

「ハ、ハム太郎と……カブト虫」

咄嗟に思い付いたとっとこ的な事故のダメージは甚大であり、カブト虫の命名まで気力が回らないとなるといよいよ舟は傾き始め、女性にライフジャケットを手渡すとオーナーはこのまま一蓮托生、舟と共に朽ちると言った。

荒波に揉まれ、幾度も沈んでは浮かび、たちまち流されてゆく男。

浮き輪を掛けてあげたいと願うやいなや「すでに輪を掛けてすんごい変な髪型ですじゃん」とはその女。

 

fin