寒は寸暇に火をつけて

 

師走の候。

僧も走ればこちらも独り東北自動車道をひた走る。

カーナビはつけず携帯は家に置いており現在地などわからない、いや、知りたくもない。

ただレンタカー屋に予約を入れていたはずのソウル・レッド・クリスタル・メタリックのマツダ・ロードスターがどのような手違いを経て本腰の商用車プロボックスになってしまったのかは大いに知りたい。

こちらの予想では発情期のチンパンジーが障子に穴を開けながら電話を受けていたのではないか。

旅の滑り出しからややハードな災難に見舞われたが、道中の予期せぬ事故をそこに消化したようで心持ちは至って軽やかにして穏やかであった。

 

不慣れなハンドル捌きもやがて板につくと内装にも目がゆく。

なるほど、働く車プロボックスの名に恥じぬ装備として運転席だけでドリンクホルダーが四つ、助手席をも加算した場合には驚きの計七つとなり、そのうちドリンクホルダーに車が付いている状態になるのではないか。

一期一会の長閑な風景が後方へ流れ去る。

急き立てるエンジン音とタイヤの摩擦音の向こう、ライ・クーダーのスライドギターが微かに聞こえた。

「お前は自身に倦んでいる。今こそあてどもない独り旅に出るべきだ。そこに出会う苦難ですらお前を抱擁するだろう」

これは庭先のテーブルに自ら置いたサングラスを強そうなモグラと見間違えて「キャア」と自爆された愛すべき年上の方のお言葉であり、それはそのまま今回の一泊独り旅を決意するものとなった。

強い日差しに目を細めればこのような思考が内にこもる。

「あてどもない旅はあてどもないことでその大義をすでに果たしており、こちらが受ける羨望を糖衣とした苦い疎外感はそれこそあてどもなく荒野を彷徨うし」

ほどなく料金所を冬晴れの下に望む。

 

こちら生来の漢につきETCカードなど軟派なものは当然持ち合わせておらず現金での支払いとなる。

愛想のよい係員のおじさんとのやり取りは数秒であったが、その衝撃たるや書する今を以てして鮮度を落とすことはない。

おじさんは間違いなく「はい、クンニちは。〇〇円です」といった。

バックミラーに捉えた料金所は徐々に遠ざかるも、おじさんの存在感はたちまち増しては生霊として助手席に座した。

きゃつは通る者すべてに「クンニちは」という空耳に寄りかかった社会通念を逸脱するご挨拶をカマすことでいつバレるやも知れないスリルに身を任せて愉しんでいやがる。

だがしかし、それは彼にとって人生というあてどもない旅に欠かせない一雫の潤いだとすればけしからん行為だと一概に断罪することなど誰にできよう。

「おじさん、俺にはまんまとバレてしまったが、これからどうするね」

「いつかはそんな日が来ると思っていたよ。いや、そんな日を待ち望んでいたのかも知れない」

そして係員のおじさんは「ありがとう」と霧に化してはエアコンの吹き出し口に吸い込まれていった。

 

焼き芋の販売車が二台、赤い提灯を激しくなびかせながら猛スピードでこちらを抜き去ってゆく。

それはイモ臭い熱々のカップルが季節はずれの波打ち際を追いかけっこしているようであった。

遅い午後の日差しを受け、あてどもなく高速を降りては導かれるまま道なりに走り続ける。

寒々と連ねる峰々を借景としたさびしげな田園風景が途切れることなく流れてゆく。

トタン板で設された古いバス停には農作業姿のおばあさんがちんまり座してはみかんを食しており、なんとも愛らしく絵になる佇まいにアクセルも緩む。

さすがに凝視は礼に失する行為であり流し目を用いて徐行したところ、あろうことかおばあさんはみかんを食しながらポンジュースを飲んでいた。

わからない、わからないがプロ野球選手が試合中のベンチでファミスタをやる感じなのだろうか。

 

彼方に日が落ちれば大禍時、ネット環境を持たぬ身から早々と宿探しに着手する。

あてどもない旅だがこちらも人の子、欲を言えばちょいと腰回りに脂身のついた色白の若女将(未亡人)が女手一つで切り盛りする古風な宿がいい。勧めたビールの一口二口で胸元まで真っ赤に染まる下戸ぶりが艶っぽく、徐々に敬語が崩れてゆくその様にこちらの理性も崩れるというもの。激しい情を交わし終え、互いの息も整わぬうちに汗ばむ肌を合わせてきては「遠縁に屋鋪要がいるの」とこちらの耳元に内密をささやく。

だがそのような妄想が現実に起こることはなく、実際に辿り着いた宿とは小さな平屋が五つ六つ点在する素泊まり施設のようなところであった。

なにが悲しくてスーパーポリスと刺繍されたキャップを被る受付のおじいさんがいうには「露天風呂はないけど部屋風呂のお湯は全部温泉のお湯だから」とのこと。

通された平屋は手狭な和室、短い廊下のつきあたりにはユニットバスというあてどもない旅にはマッチした質素な造りであり、玄関に飾られた絵画が唯一の装飾として自画像と銘打つそれは豊かな髭を蓄えた重厚な男性が椅子に腰をかけてはこちらをガン見しているというもの。

下駄箱の不具合を調べているスーパーポリスに「この方はオーナーですか」と尋ねたところ「いや、まったくわからない」という。

誰なのかまったくわからない自画像をしばらく眺める。

無意味という意味がこのあてどもない旅の答えに収まろうとしていた。

小さな湯船に湯を溜める。

大金持ちがコンタクトケースと見間違うであろう小さな小さな湯船に湯を溜めた。

 

fin