逆火の生きる

 

焚き火といって思い出すのは小学生時分にさかのぼる。

それは二月の開けた田んぼにて近所のおじさんが催したものであり、芋の焼き上がった頃合いに現れたのがしゃなりと老貴婦人、熱々の芋を掴み取り「ぅ熱い!」といってブーケトスばりに後方へ放り投げ、それがそのままおじさんの自転車のカゴに入った。

そのような美しい思い出を車窓に映し出し、向かうは「日帰りde焚き火体験!」なるもの。

完全に浮かれ切ったイベント名とは裏腹にこちらと運転する者は申し合わせたように沈黙、車内にはすでに焚き火のイメージがもたらす幽玄なる趣が色濃く漂っていた。

カーラジオより通販番組が流れる。

「先日紹介致しましたご商品、乳酸菌が4000億個と申し上げましたが正しくは3000億個の誤りでした。訂正してお詫び申し上げます」

以前にも同じようなものを耳にしたことがあり、やはり以前と同じように思った。

「この世は10分前行動以外に意味はない」

ダッシュボードの紅の豚が首を縦にカタカタ揺らすことでこちらの思いを高速で肯定していた。

 

中央道を降り、傾斜のかかる林道を登りきったところでハンドルを握る者が口を開く。

一時間近い無言のブランクが祟り、痰も絡めば縮こまる声帯は弱々しく「ジンバブエにバナナという名の首相がいたらしい」と遺言のように発した。

動揺するこちらの声帯も思いのほかに弱っており「Jリーグカレー」のような返答をして精一杯。

それから「彼はなぜこのタイミングでそのようなことを発表したのだろう」という疑問を新たな乗員として車内に迎え入れるも、目的地らしきものが目前に迫るころにはその発言こそ必要なピースとして数分前の世界に角を落とした形でピタリと収まりをみせていた。

だだっ広い駐車場に車は一台もなく、二台のレンタル自転車が一台ずつ二つの駐車スペースに駐めてあり、果たしてそれは有用なのかそれとも壮大な無駄なのかという一種の問い掛けには未だ答えを見出せずにいる。

寒さから逃れるよう競歩の体で施設に滑り込んだところ係員より「本日団体のキャンセルがありまして」という口切りからかくかくしかじかを経て「2人de焚き火体験!」との思い切った申し入れがある。

どっこいそれはシャイ・ボーイな我々の性格上に好都合であり快諾、ベンチコートが貸し出されると手厚いエスコートを得てテニスコート二面分のグラウンドに通された。

ははぁ、その中央にはそれらしい木材が組まれ、なるほど、点火を待ってして焚き火の開始ということか。

「本日の焚き火を担当いたします水木と申します。よろしくお願い致します」

なんだかとっても燃えにくそうな名前ではあるが、余計なツッコミは入れずにこちらと連れの者は拍手を打つ。

さっそく水木係員は「松ぼっくりこそ自然界の着火剤なんです」と丁寧に注釈を入れ、マッチを用いて数個燃やしては組まれた木材の中心部に落とし入れた。

ツッと天に引っ張られた煙が凍てる空気に身をよじらせる。

その様を食い入るように見つめていた連れの者が「煙の形がパンを焼くローマ人に見える」とおっしゃる。

こちらの赤面をよそに水木係員は草むらでオンブバッタを見たような「おぉ」という程よいリアクションを起こしては作業を続行する。

 

爆ぜる火の粉は感情の入り込む余地を多分に残して消えてゆく。

焚き火を利したコーヒーが振舞われ、ひと啜り毎の異なる滋味に美味い以外の形容を持たない。

水木係員が「もう温かいコーヒーは衣類の類ですよね」という。

そんな気の利いた一言にはどうしても何か被せたい性分である連れの者が忙しなく膝を揺すり始めた。

またしてもローマ人がパンを焼き出すのではないかという懸念から奴のもみあげをむしり取り、それを火中にくべて落ち着きを促す。

聞き慣れぬ鳥のさえずりが止み、水木係員がスマホから最新洋楽ヒットチャートのようなものを流し始めた。

好意を踏み躙るようで申し訳ないが我々はそのような軽薄なものに心を動かされることはない。

むしろ「焚き火という古より繋ぐ癒しの場に一番似合わない曲」を各々YouTubeより持ち寄ろうではないか。

そのようなこちらの提案に連れの者は乗り気に、水木係員は好奇心が上回る戸惑いをみせた。

結果として言い出しっぺのこちらが召喚した『笑点のテーマ』は思いのほか評価は低く、次ぐ水木係員の『ズルい女』に関しては「焚き火の炎にズルい女への情念がリンクするからダメ」と連れの者が手厳しいジャッジを下す。

そして大トリである奴の番となり、こちらが「早くしろよ」と催促すれば「もうとっくに始まっている」という。

どういうことかとiPhoneを覗いたところ『癒しの焚き火サウンド』なるものがすでに再生されていた。

これはもう焚き火に似合う似合わないという次元ではなく焚き火の最中に焚き火の音を鳴らすことで「人生に意味はない」という揺るぎない真実を寒空へ捧げていた。

おれは奴のもみあげをむしり取り、それを火中にくべて称賛を表する。

 

fin

帰るなら門松の竹ン中に鍵を

 

新年明けましておめでとうございます。

なにやら今年も早々に騒がしく、年下の者が婚約中の彼女と電話越しに小競り合っており、近く伴侶となる者に向かって「なんでそうなるんだよ!この田舎侍が!」とは穏やかでない。

彼が電話を切るや否や、ある種の礼儀として間を置かずにその理由を尋ねた。

「いやアホがピーマンを挽肉に詰めているんですよ!」

平時に温厚である彼の剣幕から春先に控えた結婚式にて白無垢の上からブルマを履きかねないとまでその不安は飛躍しているのだろう。

彼にはすまないがこちらの正直なところを申し上げると常識に囚われない彼女の自由さが嫌味でなく羨ましい。

思い返す我が人生、ロックンロールだなんだと託つけては数々の不埒な言動に及びながらも結局は常識という名のプールの底を足先でツンツン確認していた気がする。

聞くも涙、語るも涙、とうとう二本のパイ毛が真正面に伸びようとしているお年頃、どうやら常識に囚われない自由なるものを多角的に検証する時を迎えたようで。

 

ささいな所用を携える外出にさえどこか深刻の感がつきまとう冬。

それが冷たい誘い水となり塀の向こうを定宿とする男が唯一娑婆に残した言葉をなぞる。

「棒棒鶏の棒の字はひとつ減らしてもよくないか」

やはり法律の外側、常識の外側に生きる男の言葉には重さは元より自業の得とはいえ抑圧からの解放を願うどこまでも自由に焦がれた響きがある。

寒空を仰げば名も定かでない鳥の群れが凍雲を背に闊達と飛び回る姿をみた。

また近所の変なおじさん代表を務めるよしゆきちゃんが新年の挨拶を欠いた自販機にキレている姿をみた。

さらにバス停から絶妙な距離を取ることでバスを待っているのか、それともそうでないのかが非常にわかりづらい新人バス運転手殺しのストロングスタイルで佇むおばあさんをみた。

こんなにも身近に常識に囚われない自由が溢れているとは存外であったがそれほどの感情は動かない。

それよりも自由とは当事者にその自覚はなく、それに際した他者が始めて感じるものだという実感を強く受け、その印象は死に同じ、また表裏の理から生にも同じと思い至る。

生きることは自由、死ぬことも自由という極めて捉えどころのない厳たる真実に我々人間は絶望する自由をも有するところに新たな自由がまた生み出されてゆくのだろう。

 

世田谷通りに徒を拾う。

自由を妄りに深掘りした為に心は暗く沈み、不自由になりかけていた。

ここはひとつ実家へ遊びに来ている甥との通話から無垢で瑞々しい自由に思い描く夢を抽出したい。

「お、あけおめ。どうなのよ、ぶっちゃけ将来は何になりたいんだよ」

男児が憧れる定番としてはパイロット、警察官、プロスポーツ選手、はたまた時代に感化されたプロゲーマー、ユーチューバーといった線もあるのか。

彼は「将来も自分だよ」と答えた。

なんと端的でいて詩的且つ機知に富んだ上で含蓄溢るるには哲学の崇高なる領域を自由に駆け巡っているではないか。

自分が彼ぐらいの年頃ではキョンシーを倒すことが夢であり、枕元には三十センチ定規と交通安全のお札を常備していたというのに。

とはいえ、知らぬ間に頼もしく育っているようで喜ばしい。

そんな賢い彼に限ってそのようなことはないとは思うが、この先々に大人を舐めるようなことがあってはならぬと教えるなら今、豊富な知識で圧倒するのもまた叔父に課された務めであろう。

「もしもし、あの、あれだな、インバウンドからのエビデンス的なアジェンダはもう勘定奉行だよな」

もはや自分で何を言っているのかさっぱりわからないが電話の向こうで彼がケラケラ笑うのでそれで良しとする。

 

ショーウィンドウ越しのタヌキ風赤ちゃんポメラニアンに暫し見惚れてペットショップ。

そこへ若い男の店員がこちらの側について「昨日入ったばかりの男の子です」という。

昨日入社したのかも知れないが自分のことを男の子と呼ぶのはいくら多様性の時代とはいえ社会通念を著しく逸脱するものではないか。

大袈裟な戸惑いを眉間に示してみせるも彼はいつまでもニコニコしてやがる。

おそらく自由を求める余りこちらが無意識に引き寄せているのだろう、またもや大胆に自由を振りまく者と出会ってしまった。

「基本的に好奇心旺盛で人懐っこいですね。あとは関節の病気に気をつけて頂ければ」

彼の繰り出す我を前面に打ち出しまくった自己紹介に嫉妬混じりの嫌悪を覚え、詰まるところ自由とは程々の距離を置いて鑑賞するに限るらしい。

愛らしいタヌキ風赤ちゃんポメラニアンとの別れを経て茶沢通りを下り、本日の目的である銀行にたどり着く。

番号札を手に着席、辺りをぐるり見回すと壁一面に小学生による無数の書き初めが貼り出してあり「お正月」「賀正」「迎春」といった書面より仄かに立ち昇る篳篥や和琴の調べを受けてなんとも雅な心持ちとなる。

だがそれも束の間、正月縛りなど知るか!と言わんばかりの自由ほとばしるスピリットが一部の書より強勢と放射されているではないか。

親族の縁をすべて断ち切って「バドミントン」と書す者があり、さらに隣の席であったのだろうかそれに触発されて「ラケット」と追随する者まである。

いやはや自由とは感染してゆくものだという確信と近年における世界的な感冒症候群を重ね合わせては感涙に堪え、潤む脇目は「軽き石」という新たな萌芽をみた。

 

fin

四季の果てる街

 

十二月一日(木) 硬いバケットに生ハムとバターのみを小粋に挟み込んだサンドイッチに魅せられて三宿のパン屋へ今日も通う。前に並ぶ男性のヘッドフォンからナンダカンダが漏れて聞こえて師走は朔日。

十二月二日(金) なんとなく時節にそそのかされる形で押入れの整理に励めば身に覚えのない品々が発掘される。まずは風情など知ったこっちゃねぇキャプテン翼の扇子。さらに「R.HAYASHI」という全く心当たりのない名が親骨を縦に走り、こちらとしてはハヤシライスでないことを切に祈るばかり。続きまして有事の際にはいつでも真っ二つになるよう断面をマジックテープでとめたスイカのぬいぐるみ。宇宙規模の用途の無さに加え、苛つくことにドライクリーニング不可。

十二月三日(土) 大人になることで失うマイワールドへの没入。昨朝のこと、可燃ゴミの収集をする作業員の後方にて男児がどっぷりマイワールドに浸っていた。ゴミ袋を仲間と見立て「俺がなんとかするからお前たちは早く逃げるんだ!」と騒ぎ立てる。作業員のおじさんは手を緩めることなく回収車にどしどしそれを投げ込む。そのうち男児は何事もなかったように学校へ。おじさんも何事もなかったように次なる集積場へ。生きる、生きている、生きてゆく。

十二月四日(日) 静寂という最上のBGMに紫煙を燻らし、ターキー八年はオンザロック、物憂げに丸氷を指先で転がす。向こうの老紳士が渋く通る声色で「僕は一平ちゃんにからしマヨネーズを入れたことがない」と店主に逆マヨビーム発射。

十二月五日(月) 若い男女を乗せた電動キックボードが深夜の世田谷通りを滑走する。ハンドルを操る男のスマホからは大音量の『ホール・ニュー・ワールド』が流れ、彼の腰に腕を回した女はそのロマンチックな演出にうっとりしている模様。ならばこちらも負けじとディズニー対決。『星に願いを』を鼻歌に「足立ナンバーのいかついハイエースで彼らを横殴りに轢き倒して下さい」と星空に願った次第。

十二月六日(火) マルちゃん麺づくり鶏ガラ醤油の存在を知るか知らぬかで人生は決まる。

十二月七日(水) いつからか定かでないが玉袋を引っ張ると妙に痛い。サッカー日本代表ユニフォームを白衣のインナーに着こなす泌尿器科の先生より「それは誰でも痛いですよ」と病院が倒壊するような診断が下された。一応「メ、メッシも?」と尋ねたところ「メ、メッシも」とのこと。

十二月八日(木) 人は全てにおいて、人は得ることで、人は解放されたい。

十二月九日(金) 過日の押入れ整理では昔メモ帳として使用していたリラックマの手帳も人知れず発見されていた。意を決して本書を紐解けば冒頭からアクセル全開、恋の方程式として「底辺×高さ÷貴方」と我ながらギャグか本気かわからぬことを臆面もなく記しており、次頁はおかしな方向に落ち着きを払い「里芋のぬめりは彼らの生き延びる手段に他ならない」と毛筆で綴られていた。こわい、こわいの、自分が。

十二月十日(土) 皇居周辺の高級ホテルに勤めていた方と話す機会があり、一番変わった宿泊客について尋ねたところ「ルームサービスを頼む度に自分の髪が短くなってゆくと言い張る男性のお客様がいました」という。いやはや楽な仕事はないようで。

十二月十一日(日) 三軒茶屋はハナマサ前、幾分に傾斜のついた坂道をザルからこぼれたみかんが転がり落ちた。坂の下では天文学的な確率を偶さかくぐり抜けた草野球のユニフォームを着たおじさんが捕球体制に入る。

十二月十二日(月) 横チンとハミチンを同義と捉える世界ならばこちらの方から願い下げです。

十二月十三日(火) 若かりし頃に映画監督を志していた方との出会いがあった。伺う限りでは映画と呼ばれるものはすべて見尽くし、それだけでなく古今に至るアニメへの造詣も深いご様子。「もしピクサーから映画の制作依頼があったのならタイトルはどうしましょう」というこちらの愚問にも「知り過ぎたやす夫」と快く答えてくれた。それから互いに腹を割った討論があり、最終的には「敏感、やす夫、敏感」というタイトルに落ち着く。

十二月十四日(水) 寒空の下、Tシャツ姿の外国人を傍観するおじいさんが「やっぱりハンバーガーなんだろうね、ハンバーガー」と白息を立てる。

十二月十五日(木) ショットのライダースをまといルーリード詩集を小脇に冬の駒沢公園へ。サッカーコートでは素人から見ても素人とわかる試合が行われており、凍てるベンチに詩集を敷き込んでしばしの観戦。味方が驚くノールックパス、試合中にペナルティーエリアでの着替え、満を持して股間でのトラップ、フェイントを多用し過ぎて自ら惑わされる者、そしてなによりキーパーが革靴。こらもうルーリードどころじゃねぇ。

十二月十六日(金) ごはんの前にお菓子を食べて怒られる。

十二月十七日(土) 「今この瞬間に将来の連続殺人犯が生まれたとする。しかし事件は当然起きてはおらず、現段階ではこちらの仮定こそ殺人的な邪心に侵されているのではないか」と泥酔した友人に語ったところ「赤マジャパ、青ジャパマ、黄ジャンバラヤ」との思慮深い返答があった。

十二月十八日(日) 今年もご愛読ありがとうございました。来年は十徳ナイフのルーペの様にギリギリの存在価値を己に見出したいと思っております。それではよいお年を!

 

fin

ぬめり思う、故にぬめりあり

 

時代の変わり目といわれる昨今、変わらぬものに安堵するもまた人の姿。

個人的に挙げれば、まいばすけっとのパスタがそれに当たる。

離婚とシャワーフックの末期的なぐらつきが重なり憔悴しきったイタリアンシェフがアルパカに唾を吐き掛けられながら作ったような揺るぎない不変のテイストは安堵だけにあらず、今日日に「不味い」という希少価値をも与えてくれる。

また過日に訪れたひと気のない秋夜の海岸ではビル・エヴァンスの『Peace Piece』を寄せては返す穏やかな波音に溶かし、永年に色褪せないものとしての安堵を万感の内に覚えた。

さっそく近しい年上の方に少々物憂げを気取ってそれをお伝えしたところ「俺は炒飯と五目炒飯を注文してしまったことがあるから大丈夫」とよくわからない励ましの言葉を賜る。

 

太子堂小学校にうねって掛かる遊歩道、黄赤に混じる落ち葉を踏み歩けば「万古不易」「諸行無常」という対義の言葉に囚われた。

永久に変わらぬこと、そして常に変わってゆくこと。

気の遠くなる美しい矛盾に際し誠実な在り方として吐き気を催せば、おぼつかぬ足取りの先、ベンチにて冷茶を喫するおじいさんの後頭部に十倍かめはめ波を放つ幼子をみた。

そのまばゆい閃光に目が眩むと思考は冷徹に冴えて本能、目前に浮遊する辞を不躾に掴み取る。

「常に変わってゆくことこそ永久に変わらぬこと」

 

三軒茶屋の街並みも日に刻々と変わってゆくのなら己の肉体も変わってゆくが理。

近頃では鼻毛に白毛が混じり始め、見積もる十年内には黒毛が混じっているという逆転オセロ現象が鼻腔内に巻き起こるのだろうがオセロとは角を取った者が制するもの、ならばこちらは鼻パックを用いて角栓を取ることでそれに応じたい。

そして肉体が変わるのならば当然心にも変化が起こり、ここのところ長年吸い続けるタバコにも思うところがある。

赤子の頃は母親の乳を吸い、やがて小学校では牛乳を吸い、また放課後にはツツジの蜜を吸い、変声の頃にはタバコを吸い、時にUFOに吸い上げられ、そのうち女の紅唇と乳を吸い、悪知恵もつく壮年の末には脱税という甘い汁を吸い、果ての晩年はその天罰として大病に罹り麻酔を吸う。

振り返るこれまでの人生、また馳せるこれからの人生、とにかく吸いっぱなしではないか。

よくわからないがこのままではいけない気がする。

昨日見かけた法律では裁けないぐらいに眼鏡がズレまくっていた工事現場の交通誘導員もこのままではいけない気がする。

 

なにはさて、経年による味覚の変化がこのところ顕著に現れており、嬉々として食したはずのジャンクフードもすっかり影を潜めた。

それが証拠に凍てる雪山にて遭難、そこへ雪の精霊が現れ「不憫な者よ、そなたにはビッグマックかうら若き女子の使用済みギョウ虫検査セロファンのどちらかを授けよう」と選択を迫られたのなら救助ヘリからも一目瞭然の赤面を以ってして後者を選び取ることだろう。

とくに好むのは豆腐であり、この時期にはキンと冷えたバーボンソーダとおろしニンニクに生醤油をツッと落とした湯豆腐がとにかくたまらない。

先日などは興に乗じて手作り豆腐を拵えようと思い立っては吉日、大豆を粉砕するために何年も使っていないミキサーを引っ張り出すとやはりそこは湘南の猛る血が騒ぎ出す。

黒板消しクリーナーでコールを切っていた学生時代にミキサーのオンオフボタンでタイムスリップ、人は変わってゆくようでその実あまり変わらないのかも知れない。

奴がウォンウォン雄叫びを上げればこちらも呼応、さらに気合いを入れる為に鉢巻的なものを欲するも手近には間抜けの代表格であるおにぎり柄の手拭いしかない。

「てめぇなに見てんだクラァ!殺すぞ!」とそれに向けて叫んだこちらに無理もなく。

 

変わらぬもの、変わってゆくもの。

蕎麦焼酎ロックを片手に上京をして間もない頃を回顧する女が「そら私にも清純だった時代があったのよ」と語らう。

数年前の深秋は今時分のこと、図書館にて穏やかな青年との出会いがあったという。

一目にして惹かれ合い、自然お付き合いという流れに相成った。

「そら運命を感じたわよ。むしろ運命の方が感じたのかもね」

彼は穏やかな上に極めて寡黙な男であり、彼女は重ねるプラトニック・デートの大半を占める無言タイムにいつしか誠実な人柄をみた。

どのような場面に際しても心を寸分に乱すことなく、誰しもを分け隔てなく丁寧に接する彼の態度に「ヴァージンを捧げてもよい」と子宮からのLINEが入ったという。

ある晩の帰りしな、彼女は思い切ってこう告げた。

「ねぇ、この前話していた爪楊枝で作った爪楊枝入れが見たいの」

彼は神妙な面持ちに「うん」とだけ添えると珍しく手を繋いできたという。

ふたりは手を繋いだままアパートの階段を上がり、彼の部屋の前にたどり着く。

「ちょっと待ってて、散らかっているから」

彼が慌ただしく物々の整頓に励む姿を台所の少し開いた窓より彼女は微笑ましく見つめる。

そして大事件が起きた。

なんと彼はタオルを振り回し始めた。

それも親の仇のごとく、それも湘南乃風ファンクラブナンバー1桁台の激しさのごとく、彼は猛烈にタオルを振り回し始めたという。

男とはセックスを前にすればあれだけ温厚な彼ですらこうも獣と化すものか。

その変貌ぶりに驚き、絶望、そして恐れをなして覚悟とは名ばかりに彼女はその場から足早に去った。

「もう電子レンジを挿入されるかと思ったよね」

おそらく彼の行為はライフハックにおける室内消臭の一環であり、今更彼女にそれを伝えたとて過去は変わらず、現在は落砂に過ぎ去ってゆくのだ。

 

fin

戦場のベストジーニスト

 

十月一日(土) 十代より狂った男に焦がれてきたが近頃そうでない。狂った男となったのだろう。

十月二日(日) 妻の悩みはその時代を色濃く映し出す。マンモスを追いかけていた時代には「旦那の持っている槍の先がすべて丸まっている」と死活に悩み、悠久の時を経た現代では「旦那がずっとスマホゲームをしてゴロゴロしている」と悩みは尽きない。百年後には「旦那のHVGプロピレンダブルコネクターが常に丸出しになっている」とでも悩むのだろう。

十月三日(月) 知り合いの奥さんが大学時代の友人たちとバンドを組んだという。それも奥さんがボーカルをとり、さらにはオリジナル曲の作詞まで担うという。夜な夜なノートにそのひらめきを書き綴り、読み返しては首を傾げ、それでもなお諦めない姿は妻の新たな一面にしてそれはアーティストといって何ら差し障りのないものだと言う。強いてネックを挙げるのならば「じゃあ先に寝るわ」と彼がいつものようにアイマスク、耳栓、マスクを装着して寝入るとしばらくして揺り起こされ「ねぇ、この世界が嫌いなの?」と奥さんのアーティストモードが今夜も発動するであろうと。

十月四日(火) 秋の夜長を持て余すことベランダにて紫煙を立てる。月光に導かれ「お前の母ちゃん出ベソ」という罵りワードにそこはかとない猥雑の感を捉えた。罵りを受けた者より「なんで知ってるの?」と返されたのなら閉口より術はない。これはもうペタジーニのみに許された言葉なのだろう。

十月五日(水) 前を歩くふたりの男子中学生。ナイキのスニーカーを履いた子がアディダスの子に向かって「お前ガリガリ君とからあげクンばっか食ってたら頭バカになるぞ!」と声高に忠告。あぁ、友情ってこんな感じだったっけ。

十月六日(木) 夢の中に時任三郎が現れ「君はスポーツチャンバラの臨時コーチみたいな顔をしているね」といって金縛りスタート。

十月七日(金) 蝿叩き工場の蝿のような生き様、妬けるぜ。

十月八日(土) なか卯笹塚店にて作業着姿のタフなる男たちが語らうには。「人生は近眼のバドガールだと思う」「わかるわ」わかんねぇわ!

十月九日(日) だって来世は宮大工か秋のカナダになりますし。

十月十日(月) 気づくか気づかないか。それに良し悪しはないと気づくか気づかないか。そしてそれに気づいたとて何も意味がないことに気づくか気づかないか。本日、肉だんごの日。

十月十一日(火) カツアゲと逆ナンの狭間に不老不死の花が咲くと云ふ。

十月十二日(水) 飯を共にする若人より「どうすれば二度と戻らない時間を大切に出来るのでしょうか」との問いが寄せられ「その時々に湧き上がる感情を丁寧に拾い上げることじゃないかしら」と答えたところ、若人爆笑豚丼噴射。丁寧に丁寧に「殺す」という感情を拾い上げました。

十月十三日(木) 久方振りの田園都市線。ほどなく「半蔵門駅での停電により三分の遅れが生じております。ご乗車の皆さま方にはご迷惑をおかけしております」とのアナウンスが入る。たった三分の遅れで大の大人が謝っているではないか。これはもう三十分の遅延を出したのなら謝罪は当然のこと荒狂う日本海にてファミチキを罪と罰でサンドしなければならない。

十月十四日(金) 今日日のガチャガチャは百円ではなく三百円からする驚き。ならばその驚きに乗じてリアル海洋生物シリーズ全八種と銘打つものに挑戦する。狙いは白い死神ことホホジロザメだがその高いクオリティーからカジキマグロや巨大イカでも構わない。いざ小銭を入れてハンドルをゲリンゲリン回したところカプセルがやけに軽い。ギャル男の弔辞ばりに軽い。それでも素直に開けてみると「シェイプ・アップ!」というハイテンションなステッカーが丸まって二枚。ちょ、上のもん出せや。早く。

十月十五日(土) 口喧嘩の際に始めてその者が有する語彙力が赤裸々となるようで。駒沢の学生だろうか、二人の若い男が白昼の道端で顔を突き合わせて口論に。「お前はもう死んでいる」「黙れ小僧」「お前はもう死んでいる」「黙れ小僧」と本人たちは至って真面目にファンタジックなラリーを延々と繰り広げて秋曇り。

十月十六日(日) 半月後に迫るハロウィン。毎年わかりづらいスーザン・ボイルのコスプレで渋谷を闊歩する男がこぼすには「誰かにバレたとき俺はハロウィンを卒業します」とのこと。やかましいわ。

十月十七日(月) マンションのポストに大量のチラシが入るストレスの果て、ついに「チラシ投函厳禁」とのステッカーを貼り出す。しばらくはその効果があったのだが、本日投函を厳禁とする忌々しいチラシをポスト内に確認した。日頃感じていたストレスに加え、わざわざステッカーまで用意した手間をも無視する不埒な所業に怒りが込み上げる。手荒にそれを掴み取り流し目に処したところ「あなたも骨格診断ファッションアナリスト検定を受けてみませんか!?」と。「受けません」と。

 

fin

緑縁

 

二子玉は百貨店、小洒落た花屋を脇目に通り過ぎ、結局はフロアを一周する形で入店したのは前々から殺風景な玄関に気の利いた植物などがあってもよいのではないかと思っていた。

こちらヴィム・ヴェンダースを信奉する身としては荒野に寂れ立つサボテンが第一の理想にあるが、アロエヨーグルトですら時にむせ返る男にその育生のハードルは高かろう。

いや失礼、ここでハードルという言葉を惰性にかまけて安易に使いたくない。

それは末席ながら文章を綴る者としての矜持、あるいはプライドとして聞き受けていただいても構わない。

アロエヨーグルトですら時にむせ返る男にその育生のレオタードはきつかろう。

よし、ハードルですね。

それから後ろ手に店内を見て回り、狐の尾に商秋を思わせたパンパスグラス、気まずいぐらいに鮮やかなワインレッドは鶏頭、そしてついに運命的な出会いに導かれた。

先の尖る縞模様の分厚い葉々が競うように宙へ伸び、その無垢で健気な姿にしばらく見惚れる。

そして鉢に刺さる名札が目については即座の得心、ツルツルとした手触りからその名が付いたのだろう。

後ろ手を崩さぬまま「このサルスベリアは持ち帰れますか」と店員にポンと投げかけたところ、彼女はメジャーリーガーばりに「サンスベリアですね」と打ち返してきた。

それは世間的に「サンスベリア」というのかも知れないが、後ろ手に紳士を気取るお客様が「サルスベリア」と発したのなら差し当りスッと流してもよいではないか。

なにも「サンスベリア」を「ビッグブラジャー物語」と大胆に読み間違えたわけではない。

それでもサルスベリアと間違えたからにはサルのように顔を赤らめつつ店員による育生レクチャーをおとなしく受ける。

要約するとサンスベリアとは初心者にお誂え向きの植物であり、水をあまり必要としないばかりか冬場などは努めて控えるべきと念を押され、せめてもの手間として「葉に埃が溜まりやすいので時々ティッシュで拭いてあげてください」とのことであり、こちらの他意のない「あまり手が掛かりませんね」という言葉にある種の寂しさをみたか、彼女は「たまに話し掛けてあげてください」といって梱包を始めた。

 

サンスベリアとは風水学の見地よりその鋭い葉先によって邪念邪気を退散させて幸を呼び込む効能があるという。

ここでこちらの近況を明かせば「サラダ感覚」という言葉に酷く取り憑かれており、会話や独り言へ強迫的に捻じ込まずには居られない。

例えば運転中など「前のダンプ、サラダ感覚で車線変更するじゃない」といった具合に口を衝き、いずれは自分自身が「サラダ感覚」のように軽薄な男に成り果ててしまうのではないかという懸念がある。

だが、それも今日までのこと。

うがい手水に身を清め、いざおもむろに紙袋からサンスベリアを取り出し、玄関の然るべきスポットに配置を叶えたのなら憂う空に陽が差し込み、セネガルの水汲み少女はその長い帰路にて七色に輝くガラス玉を見つけ、カナダの少年は渓流に釣り糸を垂らし釣り人であった亡き父と心が繋がり、そしてこちらは「サラダ感覚」という呪縛から解放されるのであろう。

帰路、二子玉川駅から乗り込んだタクシー、ヘッドレストに下がるドライバーの自己紹介には奇しくも「趣味 観葉植物を育てること」と記され、その左証として助手席のドリンクホルダーに小さな白い花をつけた植物を備える。

防犯板越しに見受ける還暦に絡む男性シニアドライバー、その物腰は至って朗らかに柔らかく、これは購入したばかりのサンスベリアから早速贈られた幸運に違いない。

速度こそ気合の入ったトラクターばりだが、アクセルの加減やブレーキの踏み具合がなんとも優しい。

植物を愛する者は優しくなるのか、はたまた優しい者ゆえに植物を愛するのか。

後部座席にて答えのない自問にしばらく思い耽けては精神に渇きを覚え、そのうち明確な答えという潤いを運転席に欲する。

「そちらはなんというお花ですか」

「こちらはチェッカーベリーのみゆきと申します」

信号待ちでもその優しさに抜かりはなく、前車への配慮からヘッドライトを落とす。

「みゆきさんですか」

「えぇ、名前をつけることでより愛着が湧きますからね」

「あぁ、そうですね。そうですよね」

「もうそちらのサンスベリアにはお名前をつけましたか。つい目に入りまして」

予期せぬ問いにこちらも車窓よりつい目に入ったものを咄嗟に読み上げる。

「タイヤ館」

運転手さんは「お珍しい名だ」とだけいってヘッドライトをオン、例によってアクセルを優しく踏み込むと思いきや、心なしか怒気を内包する走り出しを尻肉に感知する。

それも無理はなく植物を愛する者とは自他の所有に関わらず広くそれらを愛するがゆえ「タイヤ館」などと悪戯に名付けられては憤りを覚えて当然だろう。

車内に冬を先取る冷ややかな沈黙が訪れ、用賀から桜新町を抜けて駒沢に差し掛かる頃合いで「タイヤのように力強く転がり続け、いつしか立派な館に飾られる一角の植物となって欲しいのです」と放つ。

受けて運転手さんは「それは素晴らしいお名前だ」といって眉間が緩んだ弾みか、欧米的なコブサラダ感覚で堂々と消防署の真ん前に止めたの。

 

fin

子犬も餓死するスローバラード

 

八月一日(月) 「立ちバックで出来た子供は足腰が強い」と頑なに言い張る年上の方が空き巣に家を荒らされるも何ひとつ盗まれなかったという伝説を打ち建てては炎節の滑出し。

八月二日(火) 宇宙に逃げるな、おれ。おれに逃げるな、宇宙。

八月三日(水) よそから頂いた清水白桃を台所で食らいつく。中学の頃に仲間内で鑑賞したAV「汁まみれの桃かじり」が脳裏を掠め、むせる。

八月四日(木) 古今東西のスピリチュアルに通ずる者曰く、おれの背後には限りなくタコスっぽいシルエットの守護霊がついているという。

八月五日(金) それは喫緊に迫るものではなく、さりとて度外視にも当たらないライトな便意にいざなわれてキャロットタワーのトイレへ。唯一の個室はすでに人があり、しばらく待っていると内側からノックがする。凝り固まった社会通念を叩き壊されて動揺。「います」と言って精一杯でした。

八月六日(土)  実家のおかんより甥が大きなトノサマバッタを捕獲したと写真を送って寄越した。その大きさがわかるようにタバコを横に添えるというのは今や昔、嫌煙の昨今ではボトルガム辺りが適当だと思っていたがブナシメジはないでしょうよ。

八月七日(日) 池尻のイタリアンにジョルジオ・キンタマーニというピザ職人がいるのだが、生地をこねくり回す際に心のどこかで「ちゃんと手ぇ洗ってんべな?」と思ってしまう極めて無礼なこちらの気持ちもしっかり石釜で焼き上げて昇華してくれる。いつもありがとうございます。

八月八日(月) もう亀田錬太郎でも亀田ピチピチギャルでも構わない。そんな荒む夜にはひねり揚げをさらにひねり上げるより道はなし。

八月九日(火) 世界で一番美味いものはカレイの西京焼きということで異論はないだろう。スポーツ、レジャーに持って来い、果ては犬小屋の屋根を雨風から守る為の屋根をDIYする義父の背を見ながら頂くのもこれまた味わいに深いだろう。

八月十日(水) ある公共施設の関係者から「急に空きが出たので何か講演しませんか」と弁の立つ聡明な男に連絡が入った。彼は一晩の思案を経て「ライフセーバーのはとこが教える水難事故防止術」というタイトルを打ち出すも「思いの外に岸も間柄も遠いよね!」と未然に気づく。さすが聡明である。

八月十一日(木) 夏。昼下がりのうたた寝。球児の打ち鳴らす金属音。夢の中で和尚より「お前はなんちゅう鐘の打ち方をするんだ!」と右フックを頂戴する。

八月十二日(金) バンドに携わった者なら一度は耳にする言葉。部外者からの「じゃあ俺カスタネット〜!」という言葉。ギャグにしてはつまらな過ぎるし本気にしては覚悟がなさ過ぎる。

八月十三日(土) 写真集『九龍城探訪』を紐解くとき決まってジョイ・ディヴィジョンは『Disorder』をかける。心の成田空港より心の旅客機にて心の海外旅行へ。心の機内食をいただき、心の糸ようじを使い、心の背もたれを倒して心地よい心持ち、真心こもる心のCAのおもてなしと心温まる映画鑑賞、心なしに食い込む心のパンツを心ゆくまで直し倒す。しばらくの夢心地に耽り、写真集を閉じて余韻に浸れば心は自由に不自由を知り、心は不自由に自由を知る。

八月十四日(日) 夕暮れ時、小道一本挟んでギリギリ世田谷区民になれなかった男に電話をする。「今何してんだオラ」と尋ねたところ「免許の写真にボールペンで増毛を」という。

八月十五日(月) 先客の初老男性が焼き鳥を焼く大将に向かって「あとパンチパーマのコメンテーターも」と追加注文。受けて大将が「あいよ!」と威勢良く返したところからこちらの重篤な空耳でしょう。

八月十六日(火) キャロットタワー下の喫煙スペースに集う人々が全員ニューバランス。いや!孤軍奮闘ダンロップが一名いますね!これはもうアンバランスだ!

八月十七日(水) 近頃車内にて久宝留理子の『男』をよく聴く。音割れするほどに音量を上げてはボルテージを高めて「私はあなたのママじゃないのよ!!」と前の車に向けて咆哮に及ぶ。

八月十八日(木) ミラーボールを天井に設置して日本のどこかで発せられる「マドレーヌ的な?」という言葉に反応してゆっくり回り出すシステムを構築したい。その暁には僕と踊りませんか。

八月十九日(金) バスを待つお坊さんの風呂敷から木魚がチラリ。えっろ。

八月二十日(土) 湯船に浸かりながらオリジナルの日本酒を作ったのならその名はいかにと思案する。志ん朝さんのお言葉には「酒は命を削る鉋」とある。ならばそれに倣いてポンと一文字に「鉋」というのはどうだろう。キレの良い辛口のごとくタイトな上に皮肉味もしっかり効いており我ながらに非の打ち所がない。するとつい嬉しくなり日本酒好きを公言する男にその命名の良否を問うた。「うん、鉋、いいね。全然関係ないけどリュック・ベッソンってカステラを紙ごと食いそうだよね」との雷撃的な返答に鉋が刃こぼれを起こしたような心持ちに至る。「全然関係ないけどリュック・ベッソンってカステラを紙ごと食いそうだよね」という名の大吟醸。長いネーミングの割りになんの意味も残さず、それはすなわち翌日まで酒が残らないという漢気プロミス。こら完敗だ。そして乾杯だ。

八月二十一日(日) 自分の脇を見て脇見運転をした場合はダブル脇見運転ということでいいと思います。

八月二十二日(月) スーパーのレジにて店員さんが「ポイントカードはお持ちですか」と三十そこそこのスーツを着た男に尋ねる。彼は「ぶっちゃけ無いです」と答えた。いいよ、そんなぶっちゃけなくて。

 

fin

破落戸のアナザーグリーンワールド

 

腰痛の原因は先夜の夢にある。

こちらが働くコンビニに強盗が現れ、レジの金をすべて巻き上げられた。

バックヤードより駆けつけた店長が逃走する男に尻文字で「まて」と告ぐ。

それがいまひとつの不発に終わると「まて」の語尾に「!!」を付け足せとこちらに要求。

そして二人合わせての尻文字である「まて!!」が豆粒大となった強盗の背に完成したところで目が覚めた。

上体を起こすと腰に強い痛みを覚え、それは明らかに夢の世界での「!!」というイレギュラーな尻の動きに無理が祟った。

何事も早いうちの対処こそが物を言う惑星において家の隣が整骨院と来れば渡りに船、早速扉を開けるとチャイムが鳴り、つっかけからスリッパへと履き替えて「なんと代わり映えのしない行為だ」などと思っているうちに奥の部屋より五十に掛かるかという毎回サバサンドにレモン汁をかけ忘れそうな男の先生が現れた。

問診が始まり、腰の痛みを訴えつつ卓上カレンダーに気を取られた理由を記せば七月六日と八日を大きく巻き込む形で七月七日にパワフルな花丸を飾っていた。

さらにお借りしたトイレのカレンダーにも七月七日に派手なデコレーションが施してある。

「おどれは彦星かい」

それから腰に重点を置いた按摩が行われ、頃合いをみて「七月七日に何かあるのですか」と聞きたいところであったが「あぁ、川に遊びに行くんです」などと答えられたら大変なことになる。

しばらく無言にやり過ごし、そのうちこちらのポカポカと心地よい気分に添った声質で「あれですか、腰はお仕事で」と問うて来た。

いい大人が夢の中での尻文字で負傷したなどとは言えず「え、あぁ、まぁ」と目を擦りながら曖昧に返すと先生は手を止めて「ある程度の歳を重ねると毎日どこかしらに不調があって健全なのです」といった。

 

整骨院からそのまま散歩がてらに駒沢公園、ベンチにてアイスコーヒーを吸い上げればエクアドル豆の豊かな香気が鼻に抜ける頃、長年に懸命に生きてきた勲章である不調とは健全と称して然るべきだと思った。

治癒の熱がこもる腰をさすりながら辺りを見回せば、未来を語らう恋人たち、孫にペットボトルで殴られまくるお馬さんごっこのおじいさん、そして道着姿でランニングコースを走りゆくは若葉の学生群。

そのような視聴に溢れる「THE健全」にしばらく浸り『この素晴らしき世界』を鼻歌に興じれば大樹に集う小鳥たちが愛らしいコーラスをさえずる。

優美に移りゆく時の中で心に浮かび上がった言葉はジャイアント・ヘリコプター。

目の前の幼児が吉本新喜劇ばりに転んだのはおれのせいなのかも知れない。

それからしばらく健全ワールドに身を置き、いくらか後ろめたい欠伸が現れたところでなんとなく見習いマジシャンの男へ電話を入れる。

彼は入門早々に師匠が溺愛するインコを不手際により大空へ消してしまうマジックに成功しており、電話口の朗らかな様子からどうやらクビは免れたらしい。

そして昨日の出来事を語り出すにはホームレスの方々に向けて支援団体が炊き出しを催し、その余興として見習いながらに抜擢されたという。

和妻を汲む師匠より「人前に立つ経験は人前に立つことでしか得られない」と背を押され、結局はホームレスの五、六人が観客であったが背水の陣で挑んだ。

ここまで彼の話を聞いて「健全」を感じずにはいられなかったが、この辺りから彼の口調に陰りが見え始めた。

得意とするお札を使ったマジックでフィニッシュに取り掛かるという段にて「どなたか千円札をお借りできませんか」と観客の五、六人にお願いしたところ、誰も千円札を持っていないという事態が巻き起こる。

さらにその中の一人が「兄さん、そんなの持っていたらここにはいないよ」とマジックの最中にあるまじきレスポンスを繰り出し、これもまたあるまじきにマジシャン自らの財布から千円札を取り出そうとしたが折悪しく小銭しかないという凄惨なエンディングを迎えた。

この一部始終に聞き及んだ師匠が下唇をタパパパ震わせて烈火の如くに怒ったという。

「インコは何羽でも逃していい!だがお客さんに恥をかかすなど芸人として論外だ!」

師匠自らの私欲を排した叱咤に止めどない落涙を禁じ得ず、それが次第に晴れるとこの人に一生ついてゆこうと決めた。

人間とは極めて昂ぶるとき前代未聞のフレーズを大地に産み落とす。

「これからもインコを逃し続けさせてください!」

頭のおかしい弟子に気圧され、師匠は「よ、よし!」と言っては手持ち無沙汰、メガネケースを位牌の様に持ち始めたらしい。

 

fin

愛とそぼろ

 

六月一日(水) 真白に無垢であったこの原稿を「真白に無垢であったこの原稿を」と汚してしまった。そして「真っ白に無垢であったこの原稿を「真っ白に無垢であったこの原稿を」と汚してしまった。」とさらに汚してしまった。永劫に続く無垢への羨望は煩悩、家の棟も三寸下がる真夜中にイギーポップは「Paris77」をフルボリューム。そのうち内気な隣人がさすがに苦情を申し立ててくるだろう、イギーポップのTシャツを着た内気な隣人が。

六月二日(木) 四つん這いになったご婦人のパンツを下すたびに思う。どういう政策なのかアーチ状なるクロッチエンド(?)の跡が計ったかのようにして肛門を真横に分断している。「なぜだ!あと少しじゃないか!あと少しですべてを包み込めたじゃないか!今すぐKiss Me Wow Wow!」と毎度にひどく憤るが、上半分の肛門を地平線の向こうに昇る朝日に見立てることで崇高な心持ちを以ってしてその場をいなす、はぐらかす。

六月三日(金) 免許を取ったばかりの者から深夜の緊急連絡を受ける。盆栽とキャンピングカーに挟まれて車が出せないと大いに取り乱しているではないか。もはやこれは脅迫電話の類いに該当する事案だが向こうにしてみれば生きるか死ぬかの瀬戸際であるらしく、こちらの「盆栽をどかせ」という的確なアドバイスにも「もうお終いです、もうお終いなのです」と聞く耳を持たない。それから互いに言葉を失い、しばらくあって「もう売る。もうこの状態でこの車を売る」と苦渋の決断を電話の向こうに聞いた。

六月四日(土) かれこれジャスミン茶を飲み続けること三年余りにしてその体感的な効果効能を率直に申し上げると出前館の配達員である馴染みのおじさんがさりげなく添える「お熱いうちにどうぞ」がいつの間にか廃され、あまり良くない方向に小慣れてきたような気がしています。

六月五日(日)「あの世に行けば煩わしい人間関係に悩まなくて済みますよね」と近しい若者が自殺をほのめかす。年長のこちらとしては「あの世という概念を持ち出すのならどうせまた向こうで全員集合だぞ」と諭してスイカバーをおごる。

六月六日(月) 銀座シックスの地下駐車場から螺旋の坂を登り、DNAの立体構造のような螺旋の坂を登り、雨降りの地上にたどり着く。雨粒がフロントガラスに付着すると発作的に「あだすのカヌーが見当たりませんが。あだすのカヌーが見当たりませんが。あだすのカヌーが」と連呼する病がなくてよかった。

六月七日(火) 実家にある年季の入った扇風機は今年も登板を控えているらしい。ただ「切、弱、中、強」と並ぶボタンに深刻な接続不良が見受けられ「切、強、やや強、強」として今夏に扇風するらしい。

六月八日(水) 柄にもなく選挙について記してみればなんとなく投票所へ出向き、なんとなく良さげな候補者への投票はもはや犯罪に近いとさえ思っている。そこは最低でも立候補者の中学時代にまで遡った人物検証が必要となり、合唱コンクールの曲名から徒競走では裸足で走る江戸っ子スタイルであったか、また禁止のチャリ通が体育教師にめくれて「はい、次、毎朝自転車で足腰を鍛えている◯◯」とチクリとやられた経験の有無、そしてやはり真夜中にアダルトビデオの自販機まで馳せ参じ、後客の足音に自販機と自販機の隙間に隠れて秒で発見されるという伝説の有無などは特に確認しておきたいところである。

六月九日(木) 近頃では軽く温い掛け布団こそ良品という世相の価値観に揺らぎが生じているようで。なんでもある程度の重さに利するホールド感こそ安眠に導かれると確固たるデータが取られているらしい。やはり「安眠」という二文字にはおっさんとして惹かれるものがあり、通販サイトを覗くと七キロ、五キロの掛け布団がご用意されていた。「すき家のクリームチーズアラビアータ牛丼はやり過ぎではなかろうか」とまでに悩みは及び、結局は七キロと五キロの各一枚づつに購入を決めた。数日後、我が家に七キロ二枚、五キロ二枚という掛け布団が届く。湧き上がるドス黒い紫の感情を押し殺し、それでもどのようなものかと計二十四キロの掛け布団を体験。もうなんだろう、漬物に感謝ですね。

六月十日(金) 東京03のサングラスが無性に見たい日ってあるじゃないですか。

六月十一日(土) ママチャリの二人乗りをする若いカップルが爽やかに通り過ぎてアフタヌーン。不粋な職務を課された交番の警官がそれを注意したところ、大正ロマンよろしく横向きに座っていた彼女が「すいません」と改めて荷台に正面から跨がる。あの日あの時「そういうことじゃなくて」という言葉は彼女の為だけに存在していたアフタヌーン。

六月十二日(日) ドッジボールの顔面セーフというものにタイムマシン開発における重要なヒントが隠されている気がする。関係各所、ご参考まで。

六月十三日(月) 通販で購入した形から配色まで私的ベストなヴィンテージ・ベースボール・キャップがある。ただサイズが致命的にタイニータイニーであり、それが道理に被っていると徐々にせり上がっては最終的にワンツードンくんのようになる。が、それよりも、そんなことよりも折に触れてなんとか被れないものかと試す度に小さな地震が必ず起こる。つきましては以後地震が起こる時「あぁ、あいつ今被ってんな」とでも机の下より思っていただければ。

六月十四日(火) 新宿の小さな劇場で完全即興なる芝居を観る。女が「もう私たち別れましょう」という。受けて男がやや間を取り「どちら様でしょうか」という。そのようにスリリングな即興が目紛しく展開され、最終的にそば屋のオヤジが露出狂に露出するという前代未聞のエンディングを迎える。席を立つ男性客が呟いた「そう来ましたか」という一言に印象が残る。

六月十五日(水)  セックスに炊飯器を持ち込もうとした男にビンタを口切りとした説教をしてやりました。

六月十六日(木) 何気ない日常の幸せは不幸という名の定食屋でしか味わえない。サービスの小鉢には小松菜のおひたし。さ、思う存分に浸っていただきましょう。自分の立ち位置が全然わっかんね。

 

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五月一日(日) 陸橋より眺めるに今日も環七を種々の車が走ってゆく。その運転手一人一人にマイクを差し向け「あなたは何の為に車を走らせているのですか」と問えば業務的な理由がその半数を占め、そこから買い物、行楽、送り迎えといったものになるだろう。そこでさらに問いたい。「で、結局のところ宇宙的観点から一生物としてなぜあなたは車を走らせているのですか」と執拗に迫りたい。するとどうだ、皆一様に鼻水を垂らしてM字開脚で「よくわからない」と答えて精一杯だろう。ただ時として「病院のスリッパを返しにゆく」という宇宙的観点から大胆に突き抜ける者もある。陸橋より眺めるに今日も環七を種々の車が走ってゆく。

五月二日(月) 博識高い年上の方に「過去に起きた数々の凄惨な事件も現在という瞬間に至るには必要なピースだったのでしょうか」とお伺いしたところ「そんなことよりお前は自分の盗まれた自転車に毎朝追い抜かれる俺の気持ちがわかるか?」とキレられる。

五月三日(火) ちん毛を束ねた筆でまん毛と書して尚わだかまる心、トゥナイト、ん、トゥナイツ。

五月四日(水) 古代ギリシアの壺絵に人間の滑稽味を感じてやまない。往々にして自分が滑稽と感じるものは世間より芸術と呼ばれる。すると己の滑稽な私生活も芸術なのではないか。玄関の小窓よりNHKの集金人と目が合い、軽い会釈の後に居留守というスーパープレーなどは殊更に芸術といって差し障りないのではないか。

五月五日(木) 車内に流れる音楽のリズムと歩行者の歩くリズムがぴったり重なり合うと爽やかに苛つく。

五月六日(金) おそらく世界で初めて「冗談は顔だけにしてくれよ」と言った者は己の即応能力に自惚れ、それを言われた者はその晩の風呂上がりに足の爪を切っているところでようやくの合点があり「あんの野郎!」といきり勃つもすでに機を失しており「ま、いいか」と己の寛大さに自惚れたのであろう。

五月七日(土)   妻に欲情しない男がカレー、ハンバーグの二大巨頭を差し置き「毎日稲庭うどんでは飽きるでしょ」という。

五月八日(日) 富士そばにて手繰り手繰って高楊枝。先刻より発券機に対峙する巨大なリュックを背負う外国人男性がついに「天プラ蕎麦ドレデスカ」と助けを求めてきた。易く救いの手を伸ばさなかった子細に及べば異国にてそのように窮した一コマこそ後年に思い返すかけがえのない旅のメモリーとなろう。それから「ここここヒアヒア」などと教えて「オウ、サンキュ」「ユアウェルカム」というやり取りがあり、彼は満を持して「いなり二個」をズンと強プッシュ。おれはなぜ逃げるように去ってしまったのだろう。

五月九日(月)  人は公に言ってみたい言葉というものを個々に持っている。自分の場合は「もうそちら味付いてますんで」と前掛けで手を拭きながら言ってみたい。周りの者の中には「なんだチミはってか!?」をごく自然な形で言ってみたいと願う男がいる。彼は先日カラオケで部屋を間違えたところ首筋まで墨を入れたお兄さんに「お前誰だよ!」と叱られたらしく、後々思えばこれ以上ない今世紀最高のタイミングだったと虚空を睨む。

五月十日(火) コロナの影響で失職した男を慰めようと夜の三軒茶屋に呼び出すも彼は「恥ずかしながら三茶までの足代すらしんどい」という。「今日は全部こっちが持つからタクシーで来いよ」ともてなしたところ「ありがとう!じゃあ今日はマジで財布を持って行かないから!」と空元気に放つことで自尊心を保とうとする様がなんともいじらしい。ビッグエコー前で待っていると三宿方面よりやってきた。個タクのセンチュリーがやってきた。エンブレムの鳳凰もまさか後部座席の男が無一文だと夢にも思っていない個タクのセンチュリーがやってきた。偶然、偶然だろうが一刻も早く奴を引きずり下ろして殴りたがっているおれの拳、そう個タクの真っ白なセンチュリーがやってきた。

五月十一日(水) 地球外生命体に「お色直し三回」を完璧に理解させるぐらいの気力と体力が欲しいですね、えぇ。

五月十二日(木) 所用の流れから久しぶりに神奈川のコンビニへ。店内を駆け回る小さな子に父親より「おい!おま、あんまし調子ブッこいてんじゃねぇぞ!」と叱声が飛ぶ。東京の方にとっては耳にぶつかる不快なものとは思うが、神奈川を故郷に持つこちらとしてはどこか懐かしくなにか心が和む。さて無駄に広い駐車場にポツンと停まる彼のヤンキーカスタマイズされたワゴンRに刮目されたい。あずきバーの一本すら入らない極めたシャコタンに次いでルームミラーにぶら下がるのはもちろん大麻草を模した芳香剤、そして低学歴までもが透けて見えるクリスタルのシフトノブと来ればリア・バンパーに貼り付けられたステッカーは「E.YAZAWA」「倖田組」と自らの音楽的嗜好をご近所中にアピールするだけでは物足りず「熊出没注意」と悪戯に脅かした挙句に「ドライブレコーダー準備中!(笑)」ともはや収拾がつかないご様子こそ神奈川、神奈川県。

五月十三日(金) 茶沢通り、花屋の店先であろうことか「世界に一つだけの花」のイントロを口ずさみ始めてしまったおじさん。すぐさま周辺の緊迫した空気を察したか、歌い出しより急遽「上を向いて歩こう」に変更。危ねぇなもう!

五月十四日(土) 年下の者が先日の初デートを嬉々として語り出し、こちらはうんうんと微笑ましく聞いていた。「中華街が意外と空いていたんですよこれが。で、ご飯食べて来年こそ眼鏡ぺちゃんこになって山下公園に行ったんですが、やっぱり海はいいですよね。今度はナイトクルージングしようかなんて。うん、良かった。すごい良かったです」という。来年こそ〜の件は聞き間違いだと思うが本当に言っていたとしたらおじさん心配です。

 

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