追憶のエアポケットをまさぐる日は

 

夏のような白昼を経て春陽は落ち、隠れ家を高らかに主張する桜新町の和食屋へ出向く。

床の間より座して九年の行に励む達磨大師がこちらに一瞥くれ、先客の妙齢なるご婦人とその母親とみえる方がパンデミック終焉を心待ちとした海外旅行の計画に花を咲かせており、やはりこのように閉塞した世相にはそこここに咲き乱れる話題なのだろう。

誂えたものが出揃い始め、我々は海外旅行とは真逆に位置する畳鰯を話題に語らい、そのうちどこか倦んだ連れの者が柱に引っかかってぶら下がる靴べらを手に取った。

これは高確率で「聖徳太子」という悠久の時を経た通俗なボケを披露して来るに違いなく、それを未然に咎めたところで「物の使用来歴」という思考が浮かぶ。

当然靴べらは靴べらとしてその正業を持つが、時として客同士の喧嘩に駆り出された過去があるやも知れず、はたまた店主の孫娘さんなどがシルバニア・ファミリーの流し素麺における滑り台に使用した可能性もゼロではなく、なんなら直近では聖徳太子未遂という本来の用途から大きくかけ離れた事案も発生しかけている。

世に溢れる物とはそれぞれに言い尽くせぬ物語を黙して抱え、そこに存する。

向こうの席では先の母娘が海外旅行トークの絶頂を迎えており「絶対に使い捨て紙パンツの方がいい!」と言い切った娘の提案に居を正した母親が「紙パンツなんてダメよ。あなたね、旅先の方々にとって私たちは日本代表なのよ。それが紙パンツでいいわけないでしょ!」とそれは日の丸を背負った形で娘の柔頬に愛国の誇りを叩きつけるようだった。

こちらとしては昨今に忘れ去られた日本人としての美徳に心を打たれつつも、低頭にひとつ言わせてもらえるのなら飲食店で気高くパンツパンツと連呼しないで欲しい。

そのうちとうとう連れの者が「あぁ海外行きてぇな」などと感化され、靴べらの紐に指をかけてぐるぐる回せば「海外旅行」と「物の使用来歴」というワードが撹拌されては融合、するとそれに合致する大昔の記憶が蘇る。

 

遡ること十七、八の頃、アメリカは西海岸への旅を敢行した。

そのような決意に至った訳は経年の理を以ってしてもはや不明瞭にあるが、淡い霞のような記憶を仙人よろしく自棄っぱちに吸い寄せれば当時大人気を誇った「たまごっち」の入手に難儀をして「いぬっち」に早々と妥協した己の軟弱さが許せなかった。

あるいは「盗んだバイクで走り出す」という土着の流行り文句に際しておれはどうしてもバイクを盗まれた側のやるせない気持ちに寄り添ってしまうところがあり、これもまた己に軟弱を感じずにはいられなかった。

斯くして武者修行に通ずる気概の大小を腰に差し、いざサンフランシスコ国際空港に降り立つと早くも試練が訪れる。

年季の入ったラスタ帽を被るホームレスのおじさんが「ようようそこの兄さん、ちょいとばかり金くんねぇか」のようなことをいい、一応の前情報としてそのような場に当たったのなら一貫の無視がその善処とされていた。

しかしそれではまんまと軟弱を太らすこととなり、早速の機転に都こんぶを一箱進呈することで朗らかにその場を凌いだのはこちらの手柄だった。

タクシーに乗り込み、運転手にホテルの名を告げ、空港を発つ車窓より先のラスタおじさんが視界に入る。

無邪気に手を振ってみたところ、向こうはそれどころではなく慣れぬ都こんぶの酸味にサンフランシスコ中の皺を口元に寄せ集めて身悶えていた。

そのようにして酸フランシスコをスタート地点とした西海岸の旅が幕を開け、ロサンジェルスはチャイナタウン、ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド、無駄にでかい国立公園などにも歩を向け、街角のカフェで7UPを啜っていると堀内孝雄のヒスパニックバージョンに「お前はラスベガスへ行くべきだ!」と強く推される。

年齢のチェックが厳しいと聞いていた為、ギャンブルに栄えるラスベガスを訪れる計画はなかったのだが「アーユー孝雄堀内?」と一応おじさんに尋ねたところ「ヤァ!グッドラック!」と親指を立てたものでなんとなくそのような流れに身をまかせた。

 

眠らない街ラスベガスの質屋、そのショーウィンドウには未だ鮮明な記憶が残る。

ロレックスとロレックスに挟まれて入れ歯が鎮座するというラインナップは助さん、黄門様、格さんからなるフォーメーションをガラスの向こうに思わせた。

しばらくの街散策もそのうちに尽き、あたかも温泉街で温泉に入れないというような歯痒さにけばけばしいネオンを浴び飽きると何もすることがない。

ならば街中に散見される派手なサーカスのポスターを頼りに半ば強制の観覧を決め込み、必死のボディーランゲージと拙い英語を駆使してようやく会場にたどり着いたものの開演まで一時間超を余る。

仕方なく施設内を歩き回り、何周かするとついにはトイレ、植木、窓の開閉具合などのチェックといった警備員さながらの任務に就いていた。

そこへ現場スタッフが目の前でカードキーを使いドアを開けるとこちらも完全に閉まる前に掻い潜り、若さ余って興味本位の入室を果たす。

どうせバレたところでこちらは髭も生え揃わない小僧、理解できぬ英語の小言が二、三あるだけだろうと高を括っていたところ、先のスタッフがもう一枚のドアをカードキーで開け、足早に向こうへ消えると行くも戻るも叶わぬ密室が完成された。

小部屋にはテンガロンハットとムチが壁に立て掛けてあるだけであり、天井の隅に設置された防犯カメラも指折り数えようかというほど質素な空間だった。

当初こそ「まぁそのうち誰か来んべ」などと気楽に構えていたが待てど暮らせど進展はなく、徐々に言い得ぬ不安と異国のプレッシャーが足裏の不快な湿りとして現れたころ、防犯カメラへのアピールを始める。

まずは軽く手を振り、そして両手で手を振り、しまいには走り高跳びの観客を煽るような形で大きく手を叩き、今にして思えばとても助けを求めている人物には思えない。

それでもしばらく三種のアピールをカメラに繰り返し、ついに「オーライオーライ」と車を誘導するような新技が繰り出されると人間という生物が最も腹を立てる事柄を発見した。

それは「映ってるのか映ってないのかわからないカメラ」だということ。

壁を背にへたり込み、全く身動きの取れない現状に「なにが自由の国だ」と小さく嘲笑い、驚くべきことにこのような状況下でも筧利夫がなんか嫌いだった。

こうなればムチを用いてドアを破壊するしかないと異国の密室で決を固める。

窮地に陥る者は藁をも掴み、それはテンガロンハットもかぶる。

十分にドアとの距離を取り、上段にムチを構え、南無三と心底に深く沈め、思い切って振り下ろそうとしたその瞬間、おれは九死に一生を得た。

あれほどまでに血の通った「ピッ」という電子音を今に至るまで聞いたことがない。

定時を少し過ぎてサーカスは華々しく開催され、道化師が一輪車に跨りチェーンソーのジャグリング、屈強な男が鎖で象との綱引き、次いで檻に入ったライオンのお目見え、ややあって袖よりテンガロンハットにムチを手にしたボンテージを着こなす女性が現れた。

老若男女のオーディエンスから拍手喝采がステージに向けられると女性はムチでパンパンと床をしばいて見せ、テンガロンハットを胸の前に収めて深々とお辞儀をした。

おそらく、否、確実に満座の観客たちは十数分前に極東を生誕とするクレイジーボーイが生き延びる最終手段としてそのテンガロンハットを被り、そのムチで分厚いドア張り倒そうとしていたとは夢にも思わなかっただろう。

最後にもう一度ここに記す。

世に溢れる物とはそれぞれに言い尽くせぬ物語を黙して抱え、そこに存する。

 

fin

夜の果てのアイボリーペイン

 

三月一日(火) 日々に取り立てた不足もなく、日々にのうのうと過ごしている。そのようなことでは地球が消滅するときにドリフ大爆笑のテーマをBGMとした全人類が記されるエンドロールに自分の名は載らないのではないか。

三月二日(水) 「ビルを雑巾のように絞ったらヤクルトぐらいの水分は出ますか」と面識のない建築関係の方に不躾にもメールで問うたところ「ジョアぐらいは出るのでは」とのご返答を賜る。携帯画面に一礼、そっと削除。

三月三日(木) ある男の告白によると先日父親が長年愛用していたアホのようにぶ厚い眼鏡のレンズにひびが入り、新調すべくそのお供をする運びとなった。父親は久方ぶりの眼鏡屋に血湧き肉躍り、白いもみあげが逆立つほど様々なフレームを取っ替え引っ替えした結果、その翌日に新生活応援セールの陳列棚からアホのようにぶ厚いレンズの眼鏡が発見されたと店舗サイドより連絡を受けた。

三月四日(金) 乾燥機付き洗濯機の視察に家電屋へ。巨大なテレビの前を陣取るおじさんがロシア・ウクライナ情勢の映像に対して驚くべき見解を示した。「よくわからないが」と前に置いて「もうあれだ、もうプーチンは球拾いからやり直しだな!」と爆ぜる。

三月五日(土) カクテルのメニューにセックス・オン・ザ・ビーチを発見する度に「砂が入るのでは」と下世話な心配をしてしまう自分が嫌いではないっすね、えぇ。

三月六日(日) 「その深い二本のほうれい線が上へ上へと伸びてゆき、いつしかそれが眉間に交わるとき貴方は観光バスに轢かれるでしょう」と占いにハマる義母より物騒な宣告を受けた男を知っている。

三月七日(月) 永劫の戦争放棄宣言をした国のみが核兵器を保有する権利があんじゃねぇの的な。

三月八日(火) 横で眠る女が太字の寝言で「陶芸教室へ強盗よ」という。お前はもう誰だ。

三月九日(水) 近頃ではロシアの小さなラジオ局から二十四時間ノンストップで放たれる聖歌ばかりを聴いている。歌詞は一切わからないがその執拗な美しさに無宗教のハートが羨望を起こしてやまない。それがたとえ「実家の母ちゃん未だにカスピ海ヨーグルト作っているぜ!」と歌っていたとしても構わない。

三月十日(木) マンション前のゴミ捨て場をさもしい数匹のカラスが辺りを警戒しつつに荒らしている。ついばむアメリカンドッグはケチャップ&マスタードを店員が入れ忘れた為にこちらがついカッとなって丸ごと捨てたものであろう。そしてもうひとつ、元旦に気の向くまま厚紙に毛筆を立てたものの書き終えて自ら理解に苦しんだ「令和のマルコポーロ」がゴミ袋から路上に飛び出しているじゃない。

三月十一日(金) ついに理想的な薄手のいい感じにへたるグレーのトレーナーを古着屋にて発見。値札など見ずに、また試着などせずにカウンターへ持ってゆき早々の会計へ。二万五千円という値段に多少の驚きこそあれど、己のセンスが高く評価されたような心持ちが上回ると嫌な気分はしない。しかしそこで初めて気付いた左胸の「R」という刺繍に財布を開く手が止まる。Rは駄目だろう。錬太郎がRの刺繍は駄目だろう。それでも諦め切れず「この刺繍は錬太郎のRではないという意味でのRですよね」と無法にも店員に詰め寄る。彼が「え?」と狼狽する心情を短く表せばその語気こそ大昔に高円寺のピンサロで大会前の仕上がった女性ボディービルダーが登場した時に思わずこちらの口を衝いた「え?」に酷似していた。

三月十二日(土)茶沢通りの整体院前で客を見送る若い店員が「本当にすいませんでした!」と頭を下げた。受けておじいさんは「いや、ね、うん」などと言葉少なくいなしている。おそらく施術中のおじいさんがあまりにも大山椒魚に似ているものだから魚肉ソーセージを口にねじ込んでしまったのだろう。

三月十三日(日) 戸越から首都高、ハンドルを握る年上の方が「最近は瀬戸内寂聴を読んでいる」という。そして「彼女は九十九歳で亡くなった。それは自他に百の希望を抱かせたようで実に彼女らしい」と継いだ。こちらとしてはただただ頷くばかりで車は白金料金所に到着、それからしばらく走るとY字に岐れる一ノ橋JCTに臨む。「この一ノ橋ジャンクションの合流は怖いよ。向こうから来る車が全然見えないからね」と言いつつ無事に難所を乗り越え、そこへたまさかカーラジオからマイケル・ジャクソンが流れると氏は「お、マイケル・ジャクション」と発した。なんだかもう寂聴とJCTとジャクソンが入り混じった末の言い間違いなのか、それとも渾身のギャグなのかしばらくこちらには判然とせず、結局は年上を立てる形を以て窓を少し開けることで外気に流した。

三月十四日(月)未だ見ぬ娘が年頃となり、伏目に「の」の字を書きながら「今度会って欲しい人がいるの」などといい、松屋の限定メニューであるシャリアピンソースのポークソテーのような男を連れて来たのなら何もいうことはないぜ。

三月十五日(火) それぞれの狂気を持ち寄って。

 

fin

スポーティーな炬燵と悲しみのサンダーロード

 

二月一日(火) 自転車に乗れない成人は希少であるも希少価値はないという稀な価値があるようで、タバコの一服もつかぬうちに、やはりその価値もない。

二月二日(水) 貰い物のわたパチ系入浴剤で予期せぬ荒行さながらバスタイム。不快極まる激しいパチパチがすべて溶けきるころ先日ある男と行った「いやらしい響きの食べ物」の言い合いを思い出す。何を取り違えたか「ジーコのエキサイティングサッカー」と彼が言い出したので一旦中止に。

二月三日(木) もうパクチーの方も俺のことが嫌いな気がすんの。

二月四日(金) 生前ジョン・レノンが訪れた喫茶店のオーナーの孫娘の旦那の元部下の友人という完全に氷の溶けきったポカリスエット・イオンウォーターのような方に出会う。

二月五日(土) 甥より「なんでガムは口の中でなくならないの」と質問を当てられた。そこは「口の中でなくなったらお客さんが怒るからだよ」と叔父の沽券を死守。

二月六日(日) 女タレントとそのマネージャーなのか、それとも内見の女とエイブルの社員なのか。

二月七日(月) 何度も記しているが、やはり感性の核なるルーツを辿れば小学生時分に目撃した場面にある。ドッジボールの最後の生き残りとなった友人が遠目にもわかる大勃起を披露していた。即ち遺そうとしていた。そのような連綿と繋がる生命の物語を二十分休みのドッジボールにまざまざと見せつけられ、人間の業と笑いが綯い交ぜとなって未だこの胸に息づく。

二月八日(火) 超個人的な特技をここにひけらかすとおれは日本語を単なる音として聞き取ることが出来る。ただ超個人的な特技ゆえ他者には一切理解されず、唯一の使い道としては前車に追突をした際に降りてきたガルフィーを着る兄さんの荒々しい言葉にそれを使用するのみですね、えぇ、今んとこ。

二月九日(水) コロナ前の今頃か、さる筋からの勧めでとある自主映画の悪役オーディションを受けた。「一人ずつ僕に本気でキレてください」とは若い監督。しかし皆一様に「この野郎!」のような陳腐なものしか出てこない。そこでこちらは「自分は理不尽にキレることなど出来ない。不愉快だ!帰る!」とぶち込んだ。注文通りの怒りと隠し切れない誠実さを兼ね揃えた我ながらの見事なセリフに合格を確信してそのまま帰宅。のちにおれだけ落ちたと風の噂。この野郎!

二月十日(木) コンビニで買い物をした後、道すがらに年下の親しい者とバッタリ出くわす。「おう、景気はどうよ」などと鯔背な兄貴ぶるこちらのビニール袋にたべっ子どうぶつが透けているじゃない。パン線を恥じる女の気持ちが手に取るように、寒空の下。

二月十一日(金) 顎が外れるほど、愛したい。

二月十二日(土) 慎しみ深い年上の方に「三分間だけフリーザになれるとしたらどうします」と問うた。悩んだ末に「二分間でチンピラどもを懲らしめ、残りの一分間は土下座の体勢で元の姿に戻るのを待つ」とこれまた慎しみ深く。

二月十三日(日) 日本は平和ボケが過ぎる。それが証拠におれは近頃パーマン2号であるブービーは実のところヴーヴィーではないかという偏執的な妄想に取り憑かれている。

二月十四日(月) 世界で初めて眼鏡を装着して外出を試みた人物に畏敬を込めて思いを馳せる。その玄関先では顔面に訳のわからない器具をハメ込んだクレイジーな息子に涙を流した母親が「そのような格好で外出するのならば私を殺してから行きなさい」と自らの言葉に膝から崩れ落ちたであろう。

二月十五日(火) 「光ある未来を創造する」という企業理念を掲げる会社の面接にて感銘を受けた言葉を問われた際に「ノーフューチャー」と答えた男をおれは知っている。

二月十六日(水) 感度の高い三茶女子なら既にご存知であろう。エバラ焼肉のたれを「エバラ焼き肉んたれ」という野郎の方が義理人情にあつい。

二月十七日(木) バレンタインジャンボ宝くじなるものを一枚だけ購入した方がいる。一等の当たる確率は何千万分の一と巷で聞くが、その方はどこ吹く風か「当たりか外れかの二分の一だ」と見得を切る。やだ男らしい、えぇ、どうしよう、うん、抱かれてもいいかな、あ、ダメダメ、今日上中下揃ってないし、中?

二月十八日(金) 人々が死に絶えるとき、割り箸は割り箸という名から解放される。いけねぇ、近頃涙腺が緩くなってきたぜ。

二月十九日(土) とんかつ屋で若人と昼飯。「大磯ロングビーチって亀田さんの地元の方ですよね。当時はなんと略してたのですか」となめこ汁を掻き回して問うて来る。厨房からはパユパユとんかつを揚げる音。そのまま「や、普通に大磯ロングビーチだわ」と言っては湘南の戻って来ないブーメランパンツとの異名を持つこちらとしては捻りがない。「実は大磯ロングビーチとは既に略している形なんだ」と告げると彼の箸先からなめこが滑り落ち、散々気を引いてから「正式には超大磯ロングビーチズ」と発した瞬間、厨房から皿が割れるけたたましい物音。そんなに面白かった?今のそんなに面白かった?

 

fin

新春を借景としたブスバスガイドバスガス爆発

 

一月一日 (土) おそらく今から百五十年後にはその流動性を利して言葉に変化がみえる。音読みにして「新」は「しん」ではなく「スィン」と読まれていることだろう。「新郎新婦入場」は「スィン郎スィン婦入場」となり「新車で新大久保まで」とは「スィン車でスィン大久保まで」となる。あ、スィン年明けましておめでとうございます。

一月二日 (日) 近所の神社へ詣でれば蕎麦でも手繰ろうとするその帰路に真っ白な犬と出会う。「今年は良い年になるぜ」と確信したところで前方より僧の振り下ろす錫杖の「ジャ、ジャ」という邪気を打ち払うような音にこちらは厳かな心緒を有してそれを迎い入れる。まさか小学生の童が潰れた空き缶を踵に闊歩しているとは。

一月三日 (月) コンソメのゼリー寄せを一生食えないのとフルーツバスケットに一生参加できないという事柄はミリ単位でまったく同等のダメージではなかろうか。

一月四日 (火) 子供が吹き鳴らすリコーダーが聞こえる。昨年の初冬辺りから毎日エーデルワイスが聞こえる。飽きもせず練習に励んだ賜物として今ではメロディーに哀愁が寄り添う形でこちらの私生活を彩る。今日は新たな曲に挑戦するようで「もういくつ寝るとお正月」をおもむろにリリース。あと三百六十日ぐらいあるけど大丈夫か。

一月五日 (水) 対面する者が言いたいことを失念した模様。「ほら、なんだっけ、ほれ、あれなんだっけ」と延々に続けるもので次第にこちらも苛つき、いい加減な態度で「ブラウンシェイビングリポートだろ」といったところ「あぁ!近い近い!」と謎は一層に深まるばかり。

一月六日 (木) 「美味しく頂きました」とは屠殺されたものへの侮辱に他ならない。殺された挙句に美味しいなど亡くなったものは黄泉にて納得できないだろう。そこは無理にでも「すげぇ不味かった!」ということで「ざまぁみさらせ!」と向こうにせめてもの立つ瀬を与える。

一月七日 (金) 昨日の降雪から打って変わる晴天に凍てる歩道は滑りやすく、前をゆく40代とみえる女性が物理の法則に従い大胆に転倒した。実験に失敗した博士のような眼鏡のずれ方をして仰向けに寝転び羞恥に陥る女性に向かい「空は青いかい?」と咄嗟に放って両者赤面。

一月八日 (土) 昨年末に伊勢佐木町へ居を移した者曰く、スープの冷めない距離に暴力団事務所があるという。

一月九日 (日) タクシーを拾ったのなら乗り込む前に滞る後続車へ一礼しましょうか。

一月十日 (月) ユニクロの更衣室でユニクロの服を脱ぎ、ユニクロの服を試着するもあまり気に入らず、買わぬユニクロの服を脱ぎ、自前のユニクロの服を着てユニクロの更衣室を出る。

一月十一日(火) 近所のコンビニで働き始めた東南アジア系のテ君が同郷の先輩であるサヒブ君より防犯カラーボールでスライダーの握りをわりと厳しめに伝授されていた。

一月十二日(水) 「くちびるが薄く、口が軽そうな女」というある噺家の表現に出会い、嬉しくなって工事現場のカラーコーンを蹴り飛ばし、速やかに元の位置へ戻す。

一月十三日(木) 常々に恋愛は水球、結婚はハンドボールだと周囲にこぼしている。なんとなく競技形態が似ているところで恋愛は溺れることもあり、結婚は夫婦水入らずということ。やかましいって?本当にやかましいのは真夜中になにが悲しくて縄跳びをズッタンズッタン始めた上の階に住む外人野郎だろ!オウ、ソーリーじゃねぇ!

一月十四日(金) 平時は凪のように穏やかであるがハンドルを握った途端に大変キレやすくなる男がいる。信号のない横断歩道を猛烈に急いで渡るスーツのおじさんに「もうそんなに禿げてるなら急ぐことないだろ!」とキレた。よくわからない理論に気押されるとこちらも「ナイピー」とよくわからない合いの手。

一月十五日(土) 狭い土地に家を建て、気合いで駐車スペースを作ったはいいが左右ビスコ2枚ずつの隙間しかないという世田谷界隈で時折見かける光景がある。近所のおばあさんも長らく車庫入れに難儀をしていたが近頃ではどうだ、小気味よい切り返しをひとつ繰り出してはびっちり車庫入れを遂行するではないか。それは「成長に年齢など関係ない」と言わんばかりにしてこちらは不意の感動を受けた。先ほどおばあさんが車に乗り込むシーンを初めて見た。サイドドアは物理的に開かないのでバックドアからノソノソと侵入、それはそれは時給で働く覇気のない車上荒らしといって過言にあらず。

一月十六日(日) 己の死後を思うと先人に倣う深遠なる沈黙を現世に醸す自信がない。

一月十七日(月) 無果汁と記された飲料を前にしてなぜか思い出す。少年野球の試合でグローブと帽子をつけ忘れて守備に入ったあいつ。監督の「お前は何なんだ!」との真っ当な怒号も追って聞こえるようで。

一月十八日(火) 二十年前、プロレスラーに憧れてアニマル浜口レスリング道場の門を叩いた男がいる。彼は極度のあがり症を持ち、自己紹介の際にあがりまくってアニマル浜口ご本人に「初めましてアニマル浜口と申します」と言い放った。彼はその単独事故的な思い出だけでこれからも生きてゆけるという。

一月十九日(水) 諸兄に告ぐ。「バナナケースにバナナが入らない」と禅問答のような電話を朝っぱらからカマしてくるような女とは付き合わない方がいい。

 

fin

遊侠の年尾

 

十二月一日 (水) チンパンにじゃんけんで負けたような悲痛の表情を浮かべ「もう男の見極めに自信がない」とは三十路の女。受けて「道端に三脚を立てて何かを計測している作業員の前を気持ち小走りになる男を選べ」と答えて師走の幕開け。

十二月二日 (木) 結婚相談所での出会いからめでたく結婚に至るも、そのまま公にしてはどこか引け目があり、式では「同志の集いで運命的な出会いを果たす」とパワフル且つ小綺麗にまとめ上げた男をおれは知っている。

十二月三日 (金) 早朝は築地場外市場。幻想的な朝焼けを単なる現象と捉えつつ、きつねやの牛丼とお新香に舌鼓を打ちつつ、隣に座る観光外国人のTシャツにプリントされた「ゴリラ豪雨」を脇目にしつつ。

十二月四日 (土) 友人家の幼子が新たな妖怪を作り出した。その名を「パソコンなめっこ」として苦手なものは砂利道とのこと。

十二月五日 (日) 年の瀬も迫り、銀行の前には警察の方が立っている。銀行強盗といえば海外では銃、日本では主に刃物がその凶器となり、いつも思うのはどこまでが効力として保てるのだろうか。木刀やゴルフクラブもありだろう、気合い次第では孫の手でもいけるかも知れない。いや、バズーカさえ背負えば卒業証書の筒でもいける。ならば一番ダメなものとはなにか。モコリンペンに絞ったところでサドルカバーという案も浮上。だが、だけども、やはり、やっぱり一番ダメなものといえば中学の修学旅行での大浴場にて恥かしがり屋の岩崎くんが腰に巻いたタオルしか思いつかない。一身上の都合により結び目を前に持ってきたものだからもうチンコしか見えねぇ。

十二月六日 (月) 宵の刻、男どもで寄り合うと石原さとみのうんこを幾らなら買うのかという議論が熱く交わされた。そのまとまったところを申し上げると「二万円で買うという者もあればまったく要らないという者もあり、両極の相。一部リサ・ステッグマイヤーのなら百五十グラム頂こうかしらと買い物カゴを小脇に肉屋テンションの者まであった」ということであります。

十二月七日 (火) 手掛かりになるのは薄い月明かり。

十二月八日 (水) 世田谷通り沿いのデンタルクリニックへ。処置を終えて今更ながら歯磨きの基礎を先生に伺ったところ「全体をかき回すのではなく二本単位で力を入れずに磨いてください」と仰る。「ありがとうございました」と一礼、去り際の背にマスクのせいか滑舌のせいかこちらの聞き間違いか「あと鎧で殴ってください」と先生がいう。

十二月九日 (木) 二子玉のデパ地下で出会った鰻おこわとやら、酒が邪魔になるほど旨い。

十二月十日 (金) YouTubeにて赤ちゃんアザラシの初泳ぎを鑑賞。飼育員のおじさんがプールにそっと放した途端にスイスイ泳ぎ出す。涙腺の開きを熱く感じ、堪らず給湯器パネルの交換に勤しむ業者のお兄さんに「血が知ってんだわ」と向けたところ、お兄さんがマスク内で吹き出す。なんか失礼だと思う。

十二月十一日(土) 厚手の靴下を求めて茶沢通り、ふと目についたお婆さんのホットスポット三恵。チラと覗けばなにかそれらしいものが陳列されている。入店を試みるとまず手の消毒に時間を取られた。なぜなら列をなす彼女たちは消毒液を前にして初めて手袋をノソノソ外す。中には消毒を無効化にする形で手袋をノソノソ再装着する者もあり。通路のド真ん中では生気を失ったお婆さんが突っ立っている。おそらく何を買いに来たのか完全に忘れたのだろう。そこを通り抜け、種々に展開される厚手の靴下を手に取るもサイズがすべて小さい。店員のお婆さんに男用はないのかと尋ねたところ「お祭り用の足袋ならあったような」と真顔でいう。それでも「まぁ履けば伸びんべ」と二、三足の購入を決めて会計の列に並ぶ。前に四、五人いただろうか、髪型が全員「小爆発」としか形容できない仕上がりになっている。それはいいのだが会計を済ませてからが非常に遅い。必ず店員のお婆さんと客のお婆さんによる軽いトークショーが開催され、それで終わったと思ったら大間違い、そこから割引券を持っていたなどと言いやがる。こちらは慣れないものだから徐々に苛立ってもくる。これはいけないと視線を外せば更衣室、靴と買い物袋が床に置いてあるにも関わらずそれに気づかぬお婆さんが思い切りカーテンを開ける。そして中で着替えるお婆さんもそれに気づかないという修羅場。入り口付近では三年ぐらい買い物袋をまさぐっていたお婆さんが「ここじゃない」と言い出す。

 

fin

落ち葉散りしく電撃バップ

 

十一月一日 (月) パン屋で働く若い女性店員の腕には無数の火傷痕、いつの日か抱きかかえる小さな息子が不思議そうに触れる。

十一月二日 (火) 小料理屋にて麦のソーダ割り、お通しには油揚げと大根を薄口に煮たもの。とても気が利いているじゃない。うむ、ならばそれに対極するものとはなにか。そら出所祝いを監獄レストラン・ザ・ロックアップで開催することに決まってんべが!

十一月三日 (水) 素人独りキャンプを敢行した男曰く、それはそれは想像を絶する体験であったらしい。まず現地まで四時間超のノンストップ・ドライビング、そして到着するやいなやテントの設営に取り掛かるも三時間半を費やした挙句に諦めると夕飯に予定していたローストビーフなど精魂尽き果て作る気がしない。しょうがなく車を飛ばし遠方のマニアックなコンビニへ向かい、山崎まるごとソーセージとまるごとバナナを頬張り、いささかにまるごとが過ぎると頬を染めつつそのまま駐車場で翌朝まで眠り続けたという。

十一月四日 (木) 友人の弟の同僚が飼う小鳥が体調を崩す。

十一月五日 (金) もう何年も会っていないアメリカ人の友人を想う。別れ際に教えた「根性焼きお願いします」はどこかで使ったのだろうか。

十一月六日 (土) パソコンの裏に忘れ去られた付箋を発見。そこには「野良パンティー」と殴り書き。根性焼きお願いします。

十一月七日 (日) 焼酎から日本酒へ切り替わる折をみて「映画に出てくる極悪犯罪集団はなぜ金を求めるのか」と年上の方に問うた。金など使わずにすべてその暴力で奪えばいいのではないかと。すると年上の方が箸を置いて「じゃあお前はジュース買うのに毎回自販機をこじ開けるのか!」と熱く張り上げた。ありがとうございます、お勉強させて頂きました。

十一月八日 (月) ユーチューブのおすすめに「恋ノチカラ第一話」が現れた。このドラマはすでに二十周は観ている。おれは死と宇宙以外に興味のない男だがこの作品にはなぜか惹かれる。内容も奇を衒うものではないラブストーリーだが気付けば二十一周目の準備運動として首をコリコリ回していた。やっぱね、深っちゃんの健気さと揺れる乙女心よ。春菜ちゃんも良い子でね。だもんでちょいと女女な展開が続くと思いきや児玉清さんが「僕はそのやり方は好きではない」なんつってピリッと締める口直し感なんざもはや梅水晶の類よ。でもね、壮吾と年上彼女のゴタついた件はちょっと要らないかなぁ。テンポが滞る感じかなぁ。いや、待てよ、わざと滞らせてラストに向けて段差をつける作戦だとしたらおれはもうケツの毛をすべて抜いてレターパックでフジテレビに送らなきゃならないよ。んん、結局ぶっ通しで観ちまった朝方にふと思い出すのは数年前に飲み屋で知り合った女だわ。恋ノチカラが好きだってんで嬉々として関連縛りのしりとりをした。こっちが張り切って「フェンネル!」つったら「ルー大柴!」ってよ。ルー大柴出てねぇわ殺すぞ雌豚が!

 

fin

別途、デラシネの記

 

十月一日 (金) 日出づる国に生まれ育ち、平時において「セットもございます!」という言葉だけは口にする機会がないと思っていた矢先、とあるヤングの集いにフレッシュネス・バーガーを種々大量に差し入れをしたところ「全員分あんから慌てんな!」の次にとうとう「セットもございます!」が飛び出した。人生の新たな扉を開いた心持ちに秋空は高く。

十月二日 (土) エルビス・コステロはライブ・アット・ジ・エル・モカンボ。ライダースの背に「即死」と白マジックで大大と書き、チンザノ・ロッソを抱えて高円寺を練り歩いた十五年前の思い出。エルビス・コステロはライブ・アット・ジ・エル・モカンボ。今ではブロッコリースプラウトを検索している。これもまたある意味でロックンロールなのではないでしょうか。

十月三日 (日) 三軒茶屋のレコード屋へ。先客とご主人がソフト・マシーンの音楽的立ち位置について意見を交わす脇にてこちらはやはりエルビス・コステロのレコードを漁る。本命に据えたライブ・アット・ジ・エル・モカンボは欠品。ご主人曰くあまり出回っていないらしい。先客はキング・オブ・アメリカが好きだという。それから話はバディ・ホリー、クラッシュ、ダムドへ至り、気づけば六十分余りの豊かな時が経っていた。おれはレコードプレーヤーを持っていない。

十月四日 (月) 我々は必ず死ぬ。金を出して購入した物すら全て一時的な借物だぜ。

十月五日 (火) 若者に「タクシー来ねみじゃね?」といったら静かに首を横に振られる。

十月六日 (水) 前を走る車、初心者マークに福岡ナンバー。いよいよ三田のT字路を曲がると目前に東京タワーが迫る。彼らのリアクションがどうしても見たい。しかし今日日東京タワーなんぞにヒイヒイいう者などないか。スッと横づけしてその様子を窺ったところ、若い男女が揃ってタワーを指差し大層盛り上がっているではないか。なにかこちらも嬉しくなるがどうしてもグータッチの意味がわからない。

十月七日 (木) 近頃の夢に野沢雅子が頻繁に出てくる。これはなにかあるのではないかと「野沢雅子 夢」と検索にかけた。すると「かめはめ波で聖火を灯したい」とヒット。いや、そういうことではなくてだね。

十月八日 (金) 亡くなられた柳家小三治さんに黙祷を。当然にこちらの一方的な面識であり、唯一落語に繋がれたご縁でありました。また巡る夏の寝しなには決まって青菜、植木屋が帰路に就くころにはこれもまた決まって幸せな眠りに落ちることでしょう。これからもよろしくお願い致します。

十月九日 (土) カラオケにて三日月を歌い上げる女よりもマラカスを持ったはいいがその出番が全くない男の切なさたるや。

十月十日 (日) 日本に長らく住む外国人の友人が物憂げにいう。「十年前に赤坂見附で食べたチキンカツ軍艦が忘れられない」おれも今日という日を忘れない。

十月十一日 (月) 空車で爆走してゆくタクシーをみた。腰を抜かすほど意味がない。いや、意味がないという意味があるか。

十月十二日 (火) ちえこ幼稚園の看板にしつこく落書きをする者がある。「え」の上部を白いマジックで塗りつぶしてどうしても「ちんこ」にしたいらしい。それを阻止すべく幼稚園の者が黒マジックで書き直すというエンドレスな攻防が人知れず三軒茶屋の片隅で巻き起こっている。

十月十三日 (水) 近所の公園でおじいさんと少年が警察ごっこ。取り調べの段にてゴム鉄砲の乱射を浴びるおじいさん。「何を食い逃げしたんだ!」そう詰められたおじいさんは「春雨」と答えた。少年警官は食い逃げ犯の顔付近に発砲。「顔はダメよ!顔は!」とおじいさん。

 

fin

続、続、デラシネの記

 

九月一日 (水) メルカリで購入した九千八百円のTシャツが腰を抜かすほどのワキガ臭。内訳にしてその九千円分がワキガ臭。女遊びに盛る友人より「コーラで洗え」とのアドバイスを直電にて受ける。

九月二日 (木) コンビニの前でフランクフルトと黒ラベルを自棄気味にキメるお姉ちゃんをみた。察するに彼氏がバナナボートを長年に渡りバナナンボートと言っていたのではないか。

九月三日 (金) 時を司る神を裏切るため、突然豚の角煮を拵えるべくピーコックへ。クックパッド曰くさほどの難儀はないという。女遊びに盛る友人より「コーラを入れろ」とのアドバイスを直電にて受ける。

九月四日 (土) いい歳をしてなぜ未だに不可解な夢を現実だと思うのか。いきなり「本番お願いします」とステージに放り出されてスポットライト。筒型ウエットティッシュのこまごまとしたセッティングを大衆に披露しているとロボコップが激怒、野沢雅子がベンチプレス。

九月五日 (日) 溜池と宇田川はダメ。日本橋と笹塚は良い。神谷町はその中間。あ、なか卯の話です。

九月六日 (月) 交通誘導員のおじいさんがベンチでコーヒーブレイク。その陽に焼けた横顔に「人が必ず死んでゆくのは義務ですか、権利ですか」と不躾に当てる。すると即答の形で「シフト制だよ」と仰った。深奥な哲理に触れて気配は秋。

九月七日 (火) その昔、承認欲求をこじらせながら控えめに芸能界を目指す男の家に泊まった。しこたま呑んだおれは床に転がりそのまま眠りに落ちた。どのくらい経ったのだろうか、うっすら目を開けると彼はデスクにてシュッシュッと音を立てながら作業に励んでいた。これは完全なる自慰行為の現行犯ではないかとタウンワークを丸めて背後から殴りつけようとしたところ、彼は延々とサインの練習をしていた。「シコりの最たるもんじゃねぇか!」という機智に富む反射的なツッコミは我ながら手柄として未だ心の冷蔵庫に貼り付けています。

九月八日 (水) 富山かイスタンブール、500円玉をトス、表が富山なら裏はイスタンブール、床を転がりベッドの奥へ、あぁ君も旅に出たのねと。

九月九日 (木) エアコン業者、出前館、ヤマト運輸が我が家の玄関に大集合。

九月十日 (金) 友人が泥酔、電柱ごとにゲロを吐き散らす体たらくに腹心の部下がコンビニに走るとぐんぐんグルトを買って来たらしい。そして胸ポケットにはプチ歌舞伎揚を捻じ込まれたと聞いた。ヤフーニュースのトップもんだろ、それ。

九月十一日 (土) この世に言い切れるものなど何もない。よって言い切れるものなど何もないと言い切ることもできない。誰かF1のタイヤ交換体験ゲームを作ってくんないか。

九月十二日 (日) 目玉焼きに失敗した瞬間スクランブルエッグに急遽変更。そのてやんでぃ精神は江戸っ子より脈々と我々に引き継がれたものであろう。

九月十三日 (月) 鉄板焼きは麻布の十番。寡黙にも険はなく見るからの生真面目なコックさんに妙な了見を起こし「今までの人生で犯した一番の悪事はなにか」と尋ねた。すると「先輩が五時間かけて煮込んだテールスープをすべてこぼしてしまい、しかもそれが先輩の足にかかってしまった」との微笑ましい惨劇を白状。そして小声に次いだ「むかし駐輪場に放火したことがあります」はガーリックライスを頬張ることでスルー。

九月十四日 (火) 現状でリトル・ミス・サンシャインのDVDを三本所有していることは認識している。四本目からは青魚を日々に摂り、五本目にはついに頭部のCT検査、六本目はもう日本語を異国の言葉として聞けるという独り相撲甚だしい特技をかざしてシルク・ドゥ・ソレイユのオーディションを受けようと思う。

九月十五日 (水) もうね、近頃ではなか卯の方が俺のこと好きなんじゃね?みたいな。

九月十六日 (木) 結局の詰まるところに人は誰しも解放されたい。性、金、業に満ちることで解放されたい。そして誰しもその先の死に永遠の束縛を求めている。

九月十七日 (金) 同じマンションに住む男性外国人が突然の来訪。片言に「チリコンカンを作り過ぎた」とモニター越しに鍋を抱えてみせる。それは古き良き日本のご近所付き合い、お裾分けを思わせるものであり快くそれを受け取った。貧しい舌にいわせるとウェンディーズのチリよりもずっと美味い。そしてなにより鍋の取っ手に書かれた「外用」という文字が謎。

九月十八日 (土) 年下の者より彫り物を入れたいとの相談を受ける。カフェインレス・アイスカフェラテを啜り「まず人に相談している時点でお前はダメだ」と突き放す。それでも入れたい気持ちに揺るぎはないようで「どのような柄を入れたいのか」と引き戻せば特に決まっていないという。そこで「お前が心底惚れているものはなんだ」と詰めたところ、悩んだ挙句に「ケンタッキーです」と答えた。本人が心底惚れているのなら年上も年下もなく尊重する。「小さな骨を重ねてカーネル・サンダースの顔を浮かび上がらせてはどうか」「唇の裏にKFCと彫り込んだらいいのではないか」「もうケンタッキーの肉にお前の名前を彫りやがれ」との案を矢継ぎ早に出してはみるが当の本人が納得しない。その深夜に「カーネル・サンダースの顔をしたニワトリはどうでしょうか」というメールが来る。なんか俺が入れる立場になってんなオラ。

 

fin

木林森人人森林木

 

人生に意味はない。

そう綴るとき、雲居の光明は今も昔もこちらへと信用を乞う。

人生に意味はない。

そう綴るとき、深淵の闇は今も昔もこちらへと信用を乞う。

良きにつけ悪しきにつけ人生に意味はない。

ならば陰陽の境を身体の中心に据え、互い違いに踏み歩いてゆく。

 

ときにカサンドラ・ウィルソンのハーヴェストムーン、そのイントロに爪弾かれたアイリッシュ・ブズーキの調べ。

出だしのわずか数秒にして体感は永遠、この世に鳴らされた事実をおれは愛している。

人生に意味はないとは知れども、その愛はささやかな意味にして虚ろに辿る道に添えた一輪の花。

しかしそのような思索に耽るばかりに引き寄せたか、突然の電話により花は無残に千切られた。

「お忙しいところ失礼致します。こちらブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパンの小林と申します」

茶碗蒸しの椎茸のようにしっとり控えめな声色の女性、それは数年前より愛飲する加熱式たばこグローの元締め会社からであった。

「吸う顔が蚊に似ているとの苦情が五件入っていまして」などとこちらのM心をくすぐる報告がなされるのではないかと期待するも、なんのことはない営業を兼ねたアンケートのようなもので途端にたばこ会社を煙たがる。

「おん、どうも、そんでなにか」

「現在亀田様がお使いのグローに関しまして不具合や改善のご提案などがございましたらお聞かせ願います」

「んん特には今思いつきませんが、強いて言えばこの前吸っている途中で掃除をしようと専用ブラシを穴に突っ込んだら毛という毛がすべて燃え尽きました」

「それでしたら吸った後に少し時間を置いてからお掃除を始めてはいかがでしょうか」

「はい」

かの偉人グラハム・ベルが電話を発明して以来これほどまでに意味のない通話があったであろうか。

人生に意味はない。

 

「人生に意味はないと思うのはお前の勝手だ。でも他人を巻き込むんじゃねぇよ」

性的嗜好はSではあるがM字に禿げてゆく友人Aがこちらに物申す。

ついて返す言葉を持つが、それは己の主義を自ら反故するようで沈黙は金としてやり過ごす。

「ダメだな。お前もうダメだな。うし、行こうか」

なんでも彼の親族が奥多摩に森を所有しているらしく、精神が参るとそこへ通い心の充電をするという。

「おれ別に病んでねぇよ。人生に意味はないというのがニュートラルの状態なんだわ」

ハンドルを握る彼は聞いたか聞かぬかルームミラーでM字禿げの深度を確認しては色濃く落ち込み、高井戸より中央自動車道、稲城ICを越えたあたりでついに口を開く。

「なんで人間は禿げるんだろう」

そこに辿り着いた脳内の経緯と穏やかにキレている語気に吹き出しそうになるも努めて返答する。

「この宇宙はすべてバランスで成り立ってんだ。だからユニセフがセネガルで植樹する度にお前の髪が抜けるということも大いにあり得る。てかお前もういい歳なんだから薄毛すら大人の嗜みぐらいに受け止める度量はねぇのかよ」

「美容師が気軽に禿げていいわけねぇだろ!お前ヨガの先生がスーパー太っちょだったら嫌だろ!」

 

八王子ICを降り、夏の街道をひた走り、虫かごを下げた少年、遠方に揺れるは蜃気楼。

「なんだね、夏ってやつも虚像なのかも知んないね」

「そして人生に意味はないと繋げる気だろ」

「繋げる気はないけど繋がっちゃうところにおれの本心とお前の願望があるんだわ」

「エアコンを強と。お宅、熱中症ですね」

しばらくすると山道に入り、傾斜がエンジンを唸らせるとそのうち細い砂利道の向こうに数軒の民家がみえた。

割烹着を着たおばあさんがオレンジのマツダ・ロードスターを洗車するという非常にレアな場面に遭遇するや否や「あれ、俺の婆ちゃん」と少し禿げている者がいう。

「東京から参りましたAくんの友人である亀田と申します」と低頭する靴先に迂闊を覚えた。

なぜなら奥多摩も歴とした東京であり、これはしくじったと思うもおばあさんはニコニコとして不問、お茶と笹団子を勧めて来られる。

なるほど、この緑豊かな土地での生活が心に和やかなゆとりをもたらしているのだろう。

縁側に腰掛け、一服つけていると昨夜にヤフオクで出会ったヴィンテージ・アロハシャツの動向が気になりiPhoneを取り出したところでAがそれを止めてみせた。

「お客さん、もうこの地に入ったのなら携帯はご遠慮下さい」

目前の大自然に対する不粋なふるまいは早々にポケットに収め「さっせん」と添えて茶をすする。

だがしかし、向こうの居間ではおばあさんがバイタリティー溢れるスワイプを駆使したiPadで熱心な調べ物に勤しんでいるではないか。

どうやら資本の波はこの山里にも少なからず及んでおり、照りつける太陽、蝉の声、風鈴が鳴れば夏の昼下がり。

 

おばあさんより水筒、笹団子、熊よけのハンドベルと「日が暮れる前に戻りなさい」との言葉を授かり森へ入る。

「熊なんて出んだ」

「今年は結構出るらしい。もうこの界隈で十件以上の目撃情報が入っている」

「出たらどうすんだ」

「俺が囮になるからお前は熊の背後から水筒で思い切り殴りつけてくれ」

それは夢見がち且つ超リスキーな作戦であり、とりあえずお前を背後から水筒で殴りたい。

「どうですか、森林浴は。心の奥が落ち着くだろ」

「おん、思ったよりいいよ。青々しい匂いもまた」

時折思い出したようにハンドベルを打ち鳴らし、桃太郎さながらお腰に笹団子を縛りつけたAの後をついてゆくこと三十分、だいぶ歩いたと思うがまだ森の半分も達していないという。

木々の葉が風にさらされ、波打ち際のような音を立てる。

幻想的な木漏れ日を単なる自然現象として割り切れず、それに触れようとしたおれは「人生に意味はない」などと言い切れる資格があるのだろうか。

水筒の中身はまさかのスプライトであり、お茶という先入観をものの見事に粉砕するおばあさん。

「人生に意味はないとは傲り高ぶった先入観なのかも知れないな」

頭上に受ける日差しに地肌を透け倒したAがこちらに、そして緑々の世界に宣う。

「うんこしたい。いや、うんこする」

 

ハンドベルをこちらに預け、茂みに消えていったA。

血縁が所有する森にてひり出す野糞は一種の自爆ではなかろうか。

そのように分析しつつ、平らな岩に仰向けで寝ころべば岩肌が背にひんやり冷たく、現状にこれ以上心地よいものはなし。

一聴で珍しいとわかる鳥のさえずりに目を閉じると思考回路の澱が綺麗に洗い流されてゆくような感覚があった。

人生に意味はないのかも知れないが、おれは今ここに生きている。

意味という人間が作り出した足枷のような言葉に縛られながらもおれは今ここに生きている。

今こそハンドベルを高らかに鳴らすべきではないか、炎天の空に向けて「おれはここにいる」と。

そのとき、向こうの茂みが激しくワサワサと揺れ、鳥たちが飛び立った。

脳内は真っ白となり、そこへ少年野球時代の思い出があぶり出される。

帽子を取ったら盗塁のサイン、しかし夏の盛りで監督は試合中ずっと帽子を取っていた。

おれはもうじき熊に喰われて死ぬ。

そして奴の排泄物となり、肥やしとなり、この地に名も無い花として健気に生きてゆく。

しかし、そうは観念するも生への渇望はオートマティックに作動をした。

ハンドベルを商店街の福引ばりに振り乱したところ、茂みからこちらに叫ぶ者あり。

「俺みたいな!」

 

fin

天と選

 

梅雨煙る世田谷、あじさいより露玉堕ちては迫る都議会議員選挙。

いつかの雀荘よりつい履き帰ったサンダルをつっかけて日用品の買い出しへ向かう。

大きな水溜りを前に年甲斐もなくLR同時押しのわんぱく大ジャンプを繰り出しては自分のことが少し嫌いになりそうで逡巡、そこへ廃品回収車に対向する形で選挙カーがやって来ると互いの街宣が一時交じり合う。

「ご地域の皆様、私この度立候補しました不要になったゴルフバッグと申します。壊れていても構いません」

もう何のことだかさっぱりわからないが、そこには日々を営む清らかな民の響きがあった。

公園に差し掛かると傘も差さずにポスター掲示板から数センチという近距離から凝視する前世が煽り運転であったに違いないおじいさんを見た。

多少のやり過ぎ感はあれど、その佇まいは「都政とは己の生活である」とこちらに切々と語り説くようで。

三軒茶屋の駅前では候補者がマイクロフォンを用いて公約を掲げ、思い返せば数年前のこの場所でおれはひとりの男をある意味で当選させている。

「なんかいいナンパの仕方ってないすかね」

「あぁ!姫君ではないですか!私です!私ですよ!前世に家臣であった◯◯にございます!お忘れですか!ってのはどうよ」

「その◯◯はどうしましょう」

「名前なんてその辺の看板から適当に拝借すりゃいいのよ」

彼はさっそくスタバから出て来た女性に照準を絞り「あぁ!姫君ではないですか!」とおっ始めた。

たじろぐ女性など意に介さず「私ですよ!前世に家臣であったジーンズメイトもんじゃにございます!お忘れですか!」と捲し立てる。

おそらく姫君はジーンズメイトもんじゃという血迷った名の家臣など忘れたいし、何よりそれは冴えない大学生のデートコースじゃねぇか。

斯くして戦局は極めて劣勢に見えたがどうだ、そのうち彼女はクスクス笑い始めたではないか。

するとあれよあれよと事が進み、連絡先の交換、初デート、うれしはずかし朝帰り、惚れた腫れたの別れる別れないの末に祝言を挙げるというめでたい運びとなった。

そのようなことを思い出しながらその場を離れ、福太郎にて所用を済ませると右手にトイレットペーパーシングル十二ロール、左手には五箱を縦に連ねたスコッティ・ティッシュを二つ抱えキャロットタワーは地上百二十六メートルを見下ろす展望ロビーへ向かう。

二十六階直通のエレベーター、服屋の姐さんに教わったYoung GuvはRipe 4 Luvが頭の中で流れるとそのまま鼻歌に漏れたところで独りであり、そこに先客の疎ら具合を推しはかる。

閑散とした展望ロビーは想像通りであったが、梅雨空のパノラマは「無音のジョイ・ディヴィジョン」と物憂げに形容したいほどに素晴らしく、地上であくせく選挙活動に勤しむ人々を天空から見下ろす優越感もそれに尽くしていた。

だが、心揺さぶる光景を塗り潰す思いが降って湧く。

「この様に大量のペーパー類を持ち込んだ客は竣工以来おれが初なのではないか」

このような自意識の隆起により他者の視線に蔑みを感じると頰をほのかに紅潮させては一度トイレへエスケープ、尿意など全くないが一応便器の前でちんたまをポ、ポロンと律儀にさらけ出してはすぐさま仕舞い込みハウス、そして洗面台では近頃のおっさん化現象から左瞼が二重になりつつあるのを確認、その後は入念に手を洗うと気を取り直してはロビーへ舞い戻る。

数分の間に客の配置に若干の変化があり、己の身にもなにかしらの変化を感じ取った。

すわ、洗面台に大量のティッシュをそっくり忘れて来たではないか。

なんだろう、このカラオケにマイマイクを忘れて来たような心持ちは。

しかし辺りに動揺を悟られてはならず、ここはひとつパリコレのランウェイさながらに鋭く踵を返す。

「おれは地上百二十六メートルで一体なにをしてんだ」とは思うも、所詮人間などは宇宙ステーションでも使用後の糸ようじのにおいを嗅ぐ生き物じゃないか。

若い男女が「世田谷線小っさ!世田谷線小っさ!」と大声ではしゃぎ、意味のわからないハイタッチを交わす。

「おうおう、田舎からのこのこ出て来たカップルさんよぉ、早くジーンズメイト行ってもんじゃに行きゃがれ!」と心内に轟かせながらその方を見下ろすと、これが小さい、世田谷線が思いの外に小さいじゃない。

「世田谷線小っさ!」

こらハイタッチも無理はないなと妙に得心を覚えたところで男が女に「はい、オレンジ色の屋根の家はどこでしょう」と突然の出題、受けて女は身を乗り出し「え、え、ちょっと待って、あ!あった!」と指を差し「じゃあ今まさに引越しをしている人はどこでしょう」などと切り返す。

他愛もないやり取りではあるが、別れた数年後の秋口辺りに「あの人は今頃どうしているのでしょう」と各々自らへ出題するのだろう。

さて、お次はどの方面を拝もうかとトイレットペーパーをボスボス蹴っぱくりながらうろついていると車椅子のおばあさんに介助の者が寄り添い景色を眺めていた。

「残念ですね。今日は雨だから富士山は見えませんね」

そこへ次いだおばあさんの言葉をおれはこの先々、折に触れて反芻することだろう。

「でも向こうからこっちは見えている気がするの」

それは都政然り、愛に然り、その真実を求めれば求めるほど見えなくなってゆく。

しかし、その事象は常に不動としてこちらを見つめている。

人は時として銘菓雷おこしのようなパーマの仕上がりに明日すら見えない日もあるだろう。

しかし、明日という日はしかとこちらを見つめてやまない。

おばあさんの金言に明鏡止水のごとく心が研磨されるとそのままタワーを降り、帰路に就く。

街の穢れを避け、足早に、人々の邪心を避け、足早に。

眼鏡屋の店頭に立つピンクの法被を着た店員の男がポケットティッシュを差し向けて来る。

右手にトイレットペーパーシングル十二ロール、左手には五箱を縦に連ねたスコッティ・ティッシュを二つ抱える者にポケットティッシュを差し向けて来る。

とても義務教育を修めた者とは思えない彼の状況判断能力にこちらはただただ悠然と見つめる他にない。

そう、あのマウント富士のように。

 

fin