夏のような白昼を経て春陽は落ち、隠れ家を高らかに主張する桜新町の和食屋へ出向く。
床の間より座して九年の行に励む達磨大師がこちらに一瞥くれ、先客の妙齢なるご婦人とその母親とみえる方がパンデミック終焉を心待ちとした海外旅行の計画に花を咲かせており、やはりこのように閉塞した世相にはそこここに咲き乱れる話題なのだろう。
誂えたものが出揃い始め、我々は海外旅行とは真逆に位置する畳鰯を話題に語らい、そのうちどこか倦んだ連れの者が柱に引っかかってぶら下がる靴べらを手に取った。
これは高確率で「聖徳太子」という悠久の時を経た通俗なボケを披露して来るに違いなく、それを未然に咎めたところで「物の使用来歴」という思考が浮かぶ。
当然靴べらは靴べらとしてその正業を持つが、時として客同士の喧嘩に駆り出された過去があるやも知れず、はたまた店主の孫娘さんなどがシルバニア・ファミリーの流し素麺における滑り台に使用した可能性もゼロではなく、なんなら直近では聖徳太子未遂という本来の用途から大きくかけ離れた事案も発生しかけている。
世に溢れる物とはそれぞれに言い尽くせぬ物語を黙して抱え、そこに存する。
向こうの席では先の母娘が海外旅行トークの絶頂を迎えており「絶対に使い捨て紙パンツの方がいい!」と言い切った娘の提案に居を正した母親が「紙パンツなんてダメよ。あなたね、旅先の方々にとって私たちは日本代表なのよ。それが紙パンツでいいわけないでしょ!」とそれは日の丸を背負った形で娘の柔頬に愛国の誇りを叩きつけるようだった。
こちらとしては昨今に忘れ去られた日本人としての美徳に心を打たれつつも、低頭にひとつ言わせてもらえるのなら飲食店で気高くパンツパンツと連呼しないで欲しい。
そのうちとうとう連れの者が「あぁ海外行きてぇな」などと感化され、靴べらの紐に指をかけてぐるぐる回せば「海外旅行」と「物の使用来歴」というワードが撹拌されては融合、するとそれに合致する大昔の記憶が蘇る。
遡ること十七、八の頃、アメリカは西海岸への旅を敢行した。
そのような決意に至った訳は経年の理を以ってしてもはや不明瞭にあるが、淡い霞のような記憶を仙人よろしく自棄っぱちに吸い寄せれば当時大人気を誇った「たまごっち」の入手に難儀をして「いぬっち」に早々と妥協した己の軟弱さが許せなかった。
あるいは「盗んだバイクで走り出す」という土着の流行り文句に際しておれはどうしてもバイクを盗まれた側のやるせない気持ちに寄り添ってしまうところがあり、これもまた己に軟弱を感じずにはいられなかった。
斯くして武者修行に通ずる気概の大小を腰に差し、いざサンフランシスコ国際空港に降り立つと早くも試練が訪れる。
年季の入ったラスタ帽を被るホームレスのおじさんが「ようようそこの兄さん、ちょいとばかり金くんねぇか」のようなことをいい、一応の前情報としてそのような場に当たったのなら一貫の無視がその善処とされていた。
しかしそれではまんまと軟弱を太らすこととなり、早速の機転に都こんぶを一箱進呈することで朗らかにその場を凌いだのはこちらの手柄だった。
タクシーに乗り込み、運転手にホテルの名を告げ、空港を発つ車窓より先のラスタおじさんが視界に入る。
無邪気に手を振ってみたところ、向こうはそれどころではなく慣れぬ都こんぶの酸味にサンフランシスコ中の皺を口元に寄せ集めて身悶えていた。
そのようにして酸フランシスコをスタート地点とした西海岸の旅が幕を開け、ロサンジェルスはチャイナタウン、ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド、無駄にでかい国立公園などにも歩を向け、街角のカフェで7UPを啜っていると堀内孝雄のヒスパニックバージョンに「お前はラスベガスへ行くべきだ!」と強く推される。
年齢のチェックが厳しいと聞いていた為、ギャンブルに栄えるラスベガスを訪れる計画はなかったのだが「アーユー孝雄堀内?」と一応おじさんに尋ねたところ「ヤァ!グッドラック!」と親指を立てたものでなんとなくそのような流れに身をまかせた。
眠らない街ラスベガスの質屋、そのショーウィンドウには未だ鮮明な記憶が残る。
ロレックスとロレックスに挟まれて入れ歯が鎮座するというラインナップは助さん、黄門様、格さんからなるフォーメーションをガラスの向こうに思わせた。
しばらくの街散策もそのうちに尽き、あたかも温泉街で温泉に入れないというような歯痒さにけばけばしいネオンを浴び飽きると何もすることがない。
ならば街中に散見される派手なサーカスのポスターを頼りに半ば強制の観覧を決め込み、必死のボディーランゲージと拙い英語を駆使してようやく会場にたどり着いたものの開演まで一時間超を余る。
仕方なく施設内を歩き回り、何周かするとついにはトイレ、植木、窓の開閉具合などのチェックといった警備員さながらの任務に就いていた。
そこへ現場スタッフが目の前でカードキーを使いドアを開けるとこちらも完全に閉まる前に掻い潜り、若さ余って興味本位の入室を果たす。
どうせバレたところでこちらは髭も生え揃わない小僧、理解できぬ英語の小言が二、三あるだけだろうと高を括っていたところ、先のスタッフがもう一枚のドアをカードキーで開け、足早に向こうへ消えると行くも戻るも叶わぬ密室が完成された。
小部屋にはテンガロンハットとムチが壁に立て掛けてあるだけであり、天井の隅に設置された防犯カメラも指折り数えようかというほど質素な空間だった。
当初こそ「まぁそのうち誰か来んべ」などと気楽に構えていたが待てど暮らせど進展はなく、徐々に言い得ぬ不安と異国のプレッシャーが足裏の不快な湿りとして現れたころ、防犯カメラへのアピールを始める。
まずは軽く手を振り、そして両手で手を振り、しまいには走り高跳びの観客を煽るような形で大きく手を叩き、今にして思えばとても助けを求めている人物には思えない。
それでもしばらく三種のアピールをカメラに繰り返し、ついに「オーライオーライ」と車を誘導するような新技が繰り出されると人間という生物が最も腹を立てる事柄を発見した。
それは「映ってるのか映ってないのかわからないカメラ」だということ。
壁を背にへたり込み、全く身動きの取れない現状に「なにが自由の国だ」と小さく嘲笑い、驚くべきことにこのような状況下でも筧利夫がなんか嫌いだった。
こうなればムチを用いてドアを破壊するしかないと異国の密室で決を固める。
窮地に陥る者は藁をも掴み、それはテンガロンハットもかぶる。
十分にドアとの距離を取り、上段にムチを構え、南無三と心底に深く沈め、思い切って振り下ろそうとしたその瞬間、おれは九死に一生を得た。
あれほどまでに血の通った「ピッ」という電子音を今に至るまで聞いたことがない。
定時を少し過ぎてサーカスは華々しく開催され、道化師が一輪車に跨りチェーンソーのジャグリング、屈強な男が鎖で象との綱引き、次いで檻に入ったライオンのお目見え、ややあって袖よりテンガロンハットにムチを手にしたボンテージを着こなす女性が現れた。
老若男女のオーディエンスから拍手喝采がステージに向けられると女性はムチでパンパンと床をしばいて見せ、テンガロンハットを胸の前に収めて深々とお辞儀をした。
おそらく、否、確実に満座の観客たちは十数分前に極東を生誕とするクレイジーボーイが生き延びる最終手段としてそのテンガロンハットを被り、そのムチで分厚いドア張り倒そうとしていたとは夢にも思わなかっただろう。
最後にもう一度ここに記す。
世に溢れる物とはそれぞれに言い尽くせぬ物語を黙して抱え、そこに存する。
fin